ハリス幼稚園
大正五年(一九一六年)五歳の時ハリス幼稚園に入園しました。皆さんは、ハリス幼稚園は鎌倉で最初に創立された幼稚園、と思っているかもしれませんが、鎌倉にはハリス幼稚園よりも前に開園された明治幼稚園と呼ばれた幼稚園が雪ノ下にありました。しかし、明治幼稚園は関東大震災で建物が崩壊しそのまま閉園されてしまったので、現存する幼稚園ではハリスが一番古い幼稚園ということになるわけです。
ハリス幼稚園は、明治四二(一九○九年)アメリカ人のハリス牧師によって創立されました。開園当初は現在の場所から離れたところにあったと聞いています。その後大正の初めに有志の寄付によって、当時の江ノ電大町停車場そば(ハリス幼稚園の裏)に園舎が建てられました。中央に八角形の遊戯室、周囲の一片ごとに保育室を持つ、その当時の幼児保育の最先端をいく建物でした。しかし、この園舎も関東大地震でつぶれてしまったので、何年か前に取り壊されてしまいましたが、若い卒園生の皆さんの記憶にもある鉄筋コンクリート作りの建物が大正十四年(一九三九年)に清水建設の施工で再建されました。
私が入園したのは大正五年(一九一六年)五歳の時でした。当時は木造の梅鉢型園舎とその隣にこれも木造二階建ての質素な園舎があるだけの幼稚園でした。今でこそ入園試験もあったりしますが、当時は幼稚園といっても何時でも入れていれるような状況で、私も母親に連れられて幼稚園に初めて行ったところ、「明日からいらっしゃい」と篠原先生に言われ翌日から通園です。同級生は二十五名ほどいましたが、長谷の「米久」の娘さん、坂の下の「三橋うなぎ屋」の息子の三橋勇、風呂屋の息子の鳥井健太郎、下駄屋の「諏訪」の息子といった地元の子供と、別荘族の子供といわれる東京から鎌倉に移り住み大きな屋敷に住んでいた子供が半々くらいだったような記憶があります。
ハリス幼稚園で今も鮮明に思い出すのは、篠原しま子先生と日曜学校のことです。篠原先生はアメリカ留学の経験もある当時としては非常に先駆的な幼児教育の実践者で、卒園生だけでなく多くの新人教師にも強い印象を残した先生です。その当時のハリス幼稚園の園児は着物にエプロン、先生は着物に袴姿でしたが、篠原先生だけはいつも洋服でした。先生が亡くなるまで「篠原先生を囲む会」があり卒園生が大勢集まりました。小柄ですが怖い先生という印象が子供心に強く残っています。三十年ほど前に著名人の幼少時代の思い出を訪ねるテレビの番組があり、元国鉄総裁の磯崎さんが来園されました。私も浄光明寺の先々代の住職をされていた大三輪さんと一緒に案内役を務めさせて頂きましたが、磯崎さんも篠原先生については私と同じ印象を持っていたことが分り思わず笑ってしまいました。
卒園後、篠原先生にはお会いしていませんでしたが、五十年後のある日篠原先生に偶然再会することが出来ました。当時先生はオーストラリアに住まわれていましたが、たまたま一時帰国され何かの用事で鎌倉に来られた時、偶然鎌倉駅で先生をお見かけしたのです。私は五十年経っても直ぐ篠原先生と分り、聲をかけさせて頂きました。嬉しいことに、先生も私のことを良く覚えていて下さいました。暫し五十年タイムスリップして昔のハリス幼稚園の話題で時の経つのもわすれてしまいました。全て懐かしい思い出です。
ハリス幼稚園でもう一つ忘れられない思い出は日曜学校です。その当時も牧師さんのお話があったり賛美歌を歌ったりもしましたが、私の記憶に強く残っているのは、日曜学校の出席カードです。牧師夫人が園長をしていたので、その当時から毎週日曜学校がありました。神様のお話もあったでしょうか、お話よりも日曜学校に出るとカードがもらえる、これがたまるとクリスマスにアメリカから送られてきたプレゼントがもらえるということで日曜学校に出るのが子供心に本当に楽しみでした。百年以上も前から当時は辺鄙な鎌倉の地でも、このような素晴らしい日曜学校が開かれていたことと、私もそこに通っていたということを今でも誇らしく思っています。
🔹写真は鎌倉 鶴岡八幡宮
「夢また夢の思いで草」
2014年6月20日第一刷発行
著者 石渡弘雄
発行所 石井印刷株式会社