甦る少年の日の思い出
◇第一小学校
私は、大正六年(一九一七年)四月、六歳の時、鎌倉町立鎌倉小学校に入学しました。当時の鎌倉には、鎌倉小学校(昭和八年、御成小学校の開校により第一小学校と改名)と神奈川師範学校付属小学校(現在の横浜国大附属小学校)しかありませんでした。第一小学校の位置は現在と変わりません。相沢善三校長の下、生徒数二千名、一クラス六十名の小学校でした。
毎日、長谷から由比ガ浜通りを通って通学していました。賑やかな長谷通りに比べると、震災前の由比ガ浜通りは小さなお店が何軒かあった外は何もなく「原」と呼ばれていたように原っぱが多く、長谷のような賑やかさはありませんでした。道路も今の半分くらいの幅しかなかったと思います。
運動の時間に学校から海岸までマラソンをしたりしましたが、今は若宮大路と呼ばれている海まで続く道は、昼間でも日が射さないほどうっそうとした松林に両側を囲まれていて、晴れた日でも薄暗かった記憶があります。小学校の思い出に遠泳もあります。坂の下から、葉山まで泳いだこともありました。勿論、伴走してくれる船はありましたが、子供の安全重視の今ではできないと思います。
当時は海岸道路(国道一三四号)もなく、松林から広い砂浜が続いていた白砂青松の由比ガ浜海岸でした。その向こうは海です。砂浜も今よりずっと広かったと思います。春光キラキラ輝く波際を、材木座より坂の下海岸まで一鞭、二鞭と馬を一心に走らせて来る男装の麗人をよく見かけました。長靴の姿でさっそうと走っていく姿でした。私の十歳の頃の由比ガ浜海岸で見た美しき情景です。しかしその方の晩年は不運だったそうです。鎌女の裏に乗馬クラブもあったくらいですから、当時の鎌倉は高貴な方々には軽井沢のような別荘地だったのです。
小学校時代の思い出の中に子供心にも釈然としない気持ちを後に残す忘れがたい出来事があります。小学校六年の時、関東大震災が起きる前の一学期の時でした。相沢校長と若い先生方との教育方針をめぐる意見の対立が激化し、私のクラス担当の向坂先生がある日から突然教室に現れなくなりました。当時級長をしていた私は、向坂先生に呼ばれ「暫く教壇に立たないので、お前がクラスを上手にまとめてくれ」というようなことを言われました。第一小学校開校以来長く校長を務めておられた相沢先生、後の第二小学校校長になる梅沢先生、山口先生等々の古くからいる保守的な先生方と、私のクラスの担任の向坂先生、柏木先生等々の師範学校出の新進気鋭の若い先生方との対立が背景にあったようですが、その当時の私には、事情が良く分りませんでした。しかし、担任の向坂先生が教室に現れないことは、誠に不安でした。その当時は分かりませんでしたが、今考えてみると、我が国に義務教育制度が導入されてから間もない明治から大正時代の初めにかけては、教育現場では混乱が続いており、古いタイプの先生と師範学校で新しい教育を学んだ若い先生との間に色々な軋轢が生じた結果が当時の第一小学校でも起きたのではないかと思います。
その後向坂先生、山口先生等々の先生方は学校を追われ、それ以来、私たち生徒の前に姿を見せることはありませんでした。私の勉学心を大いに開花させてくれたのは、五年生になり私のクラスの担当となった向坂先生だっただけに、私は誰にも話せない悲しい気持ちを感じました。向坂先生はある日「読み方」の授業の終わりに「今日は石渡から幾つか質問があったが、質問をすることは大変良いことだ。皆も黙って聞いているだけでなく石渡を見習いなさい」と私を褒めてくれました。これは私にとって忘れがたい嬉しい思い出でした。それ以来、勉強が好きになりました。その向坂先生が知らないうちに居なくなってしまったのです。
以上の話は関係者以外には知られることもなく終わってしまったようですが、私には何か切ない悲しい気持ちだけが残りました。戦後の日教組の強い時代には先生の抗議行動は当たり前でしたが、大正時代に鎌倉の小学校でも斯様な事件があったことは日本の教育史上でも特筆すべきことと思い、今までは誰にも話さないでしまっておいた自分だけの思い出をお話した次第です。
この事件は先生方の間に色々な問題を残したかもしれませんが、私にとっては皆優しく思いやりのある先生方でした。当時の小学校では卒業すると進学しないで仕事に就く生徒が多く、第一小学校でも一割に満たない二、三十名程が中学に進学する程度でした。当時の第一小学校から進学する中学校は、県立神奈川一中(Y校)、逗子開成中学、県立湘南中学または東京の有名校でした。湘南中学は創立間もないので無試験でした。私は幸い父が家業を継ぐことを条件に進学することを許してくれたので、県立神奈川工業を受験することになりました。先生方も第一小学校から進学する生徒が少なかったこともあり、何とか私達を合格させてやろうと、六年生になると中学受験を目指す生徒の為に通常の授業終了後に特別授業をしてくれました。ストライキでは若手の先生方と対立した年配の梅沢先生および山口先生が受験に備えた指導をしてくれました。神奈川工業の試験科目は「算数」「読み方」をして「図工」でしたが、私にとって問題は「図工」でした。「図工」に絵も入っていたので、梅沢・山口両先生の計らいで先生方の仲で最も絵が得意とされた黒川先生を私の為に特別に付けてくれたのです。黒川先生は熱心に絵の指導をしてくれました。関東大震災の影響で建築に対する関心が急激に高まったせいか私が受験をする建築科も志願者二三〇名と七倍を超える競争率になってしまいましたが、先生方の熱心な指導のお陰で幸い三十名の合格者の中に無事入ることが出来ました。試験発表当日私たち親子と山口先生は手を取り合って喜びました。今でも当時の先生方の指導には頭の下がる思いと深い感謝の気持ちを持ち続けています。
第一小学校時代で今でも思い出す人に、小使さんの永井さんと内田先生がいます。明治四年に日本で学制が布かれたことにより鎌倉でも長谷寺の敷地内に小学校が初めて開校されたそうです。永井さんは、そこで教員をしていたことがあり、私の父も教わったことがあったそうです。しかし、その後資格の問題があったかもしれませんが、私が第一小学校に入学したときには、小使さんをしていました。しかし、私の父は、永井さんが亡くなるまで毎年盆暮れの挨拶を欠かしたことがなく、私も必ず永井さんの家に連れて行かれました。一年から四年までの担任の内田先生は年配だったこともあり、何時も「疲れた〜、肩こった〜」と言っていたので、昼休みには生徒総出で先生の肩を叩いてあげたことなど、ほほえましい思い出も残っています。
関東大震災で第一小学校の校舎は全て倒壊してしまいました。コンクリートで作られた御真影所だけが無事でした。幸い始業式後で生徒は帰宅していたので生徒、先生方は全員無事でした。唯一、私の入学後私の勉強を見てくれた長谷の鳶の羽重田さんの息子さんが勤めていた鎌倉銀行の建物が倒壊し、亡くなったことは私にとって残念でなりません。仮の建物が出来るまでの何ヶ月間は青空教室です。鶴岡八幡宮、妙本寺、時には海岸とクラスごとに分かれて授業を受けることになりました。雨の日は、神社やお寺の軒先で授業を受けました。
お寺での授業はその後の私の人生において、お寺を身近な存在にしてくれたような気がします。
🔹写真は長谷寺の花菖蒲
「夢また夢の思いで草」
2014年6月20日第一刷発行
著者 石渡弘雄
発行所 石井印刷株式会社