若 水
午前四時の元旦の空は真っ暗だ。空気が冷たく澄んで星がまだ光っている。桶を担いだ指も下駄を履いたつま先も痛いほどにかじかむ。家の向かいのやや離れた所にある井戸までたどり着いて、釣瓶を勢いよく落として水を汲み上げる。冷たい水が手にかかると、身の内の引き締まるような思いがする。
井戸の水汲みは物心ついたころから私の仕事である。父は大工の請負人、つまり棟梁だった。そういう家で育ったものだから子供の仕事に分担も厳しく決められていた。一日、十五日は朝早くから起きて神棚を祭り、お酒、榊、お灯明を上げるのも私の仕事になっていた。
家には奉公人も住み込んでいて、私よりやや年上からもう少し年のいったものまで、常に何人かの小僧が寝起きを共にしていた。両親は他人様の子を預かっているのに、私だけを特別扱いするわけにはいかないと考えていたようで、私も自分で布団を畳み、部屋を掃いて片付けをするという決まりになっていた。自分の事は自分でやるというのが父母の躾であり、教育だったのだと思う。その他にも遊んで帰った後、風呂の水を運んできて焚き付けるのが私の仕事だった。井戸と風呂場の間を桶を天秤棒で担いで何度も往復すると、途中でいい加減いやになってくる。なかなかいっぱいにならないし、風呂桶というのはずいぶん水の入るものだといつも思った。
鎌倉は水の悪い所で、鉄分が多いし、塩分もかなり含んでいるようだ。それで常磐の湧水を水商人が馬車で売りに来ていた。どこの家でも炊事の水を買っていたが、うちの井戸水は幸いに水質が良かった。けれどもポンプで井戸水をタンクに汲み上げて楽に水が来るようになったのは大正十四年頃のことだった。私はそれまでまだ何年も水を汲み上げ続けねばならない。
家で決まられていた仕事の他に、両親は人様への礼儀についても大変厳しかった。そのこともあって私は正月に遊んだという記憶が全くないのだ。元旦から三日、ある時には四日まで年始回りにやらされる。それは一人息子である私の小学生のころからの習いだった。親父は何をしているのかというと、家で客を相手に酒を飲んでいる。
子供は世間を知らないから年始回りの相手先が誰であろうと平気なようなものだが、幼いなりに相当緊張していたようだ。
「御免下さいまし。大仙でございます」
少し声を張り上げて呼ばわって、その家の主人なり丸髷の女将さんなりが出て来ると
「明けましておめでというございます。今年も宜しくお願い致します」
と口上を述べて、手拭いなどのお年始の品を渡す。父が仙吉という名だから、うちの屋号は「大仙」といった。
「これはこれは、ヒロちゃん。御丁寧な御挨拶を」
そう言ってニコニコと笑いながら新設にねぎらってくれて、おまけにお年玉までいただく場合もあるし、他の年始客に紛れて挨拶もそこそこに帰るという場合もある。どちらにしても一軒が済むとほっと息をつく。小僧の一人がお年始の品を包んだ大きな風呂敷を肩に担いで、荷物持ちとして付いてきてくれる。後になってからは自転車を使うようになったが、そういう人も遊びに行かれないで気の毒だった。しかし、そちらにはまだ何人かの交替がいるが、私だけは毎日回らなければならない。そうこうするうちに新学期はすぐ始まってしまう。
元旦のお雑煮を草々に済ませると八時には家を出て、だいたい午後の二時、三時までかかるのが普通だが、回りきれない時は夕方暗くなるまで家に帰れない。いったい何軒くらいを回ったものか、とにかくすべて歩いていくのだから大変なことだった。自分の家から極楽寺でも十二所でもみんな歩いていく。直線距離にして極楽寺まで一キロほどだろうか、そのくらいはまだ楽だが、十二所のはずれの方まで五キロ以上ある。しかもあちこちの家に立ち寄りながら鎌倉の曲がりくねった道を辿ると、いったい一日に何キロくらいを歩いたものだろう。下駄の鼻緒が足に食い込んでひどく痛いし、膝もなんだかがくがくとして、しだいに心細くなり無口になってくる。白房の紐を結んだ紋付き羽織袴に下駄を履き、小さい坊主頭の子供が大人の盛装をそのまま二回りも縮めたような格好で、疲れ果ててやっと家に帰りつく。 今になってその昔の自分の姿を想像してみると、かわいそうなようでもあり、吹き出したくもなるような心持ちがするけれども、それが両親の躾だったのだろう。得意先で一人前の挨拶をすることが棟梁の跡継ぎとして家業を身に付けることであり、天職として幼いなりに精一杯受け止めねばならない一つの生き方だった。人との付き合い方、目上の人への話し方、そうした社会生活を送る上での勉強を親がさせたのだし、それがずいぶんと後になってからも役立ったことを思うと、私にとっては大切な修養の一つだったに違いない。
「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社