初 荷

 私の手元に大正初年の『鎌倉沿革図』があって、眺めていると面白い。今の北鎌倉から小袋坂までの鎌倉街道沿い、若宮大路を中心とした辺り、小町大宮塔ノ辻から米町・今の大町の横須賀線を越えたあたりまで、あとは、材木座、坂ノ下、長谷、これらのこぢんまりとした地域に斜線が入っていて、人家が集まっていたことがわかる。
 『かまくら子ども風土記』には
「南の大町・米町・材木座には多くの商人が住んでいましたが、北の小町にも、大倉にあった幕府を中心にした武士たちの屋敷のまわりに、人々が多く住むようになってきました。この南北を結ぶ重要な道路として、宝戒寺の前から本覚寺の前に至る小町大路栄えたのだと考えられています」
 と書かれている。また
 「大町大路と小町大路が交差する現在の大町四つ角のあたりは『町屋御免地区』といって、商売をしてもよい地域でしたから、鎌倉時代の繁華街で、物資輸送の大切な通りでもあったと思われます」
 と出ている。私の生まれた長谷は、関東の三十三カ所の観音霊場として足利氏や徳川家康にも信仰されてお札を納める人で賑わった長谷観音の門前町だから、きっと古くからずっと栄えていただろう。先ほどの『沿革図』に出ている大正期の鎌倉の市街地は今の雑踏から見れば想像もできないほど静かだったが、多くの寺社に守られながら人々が生き生きと暮らす生活の場でもあったという点では今と変わりはない。
 そういう鎌倉の正月二日は初荷、つまり商人の仕事初めの日である。
 元旦の昨日とうって変わって町の中には五彩の布を背中に着せてきれいに飾り立てられた馬が荷を運んでくる。鼻綱を取って大路を行く若い衆は真新しい法被と股引を付け、馬も人も一緒の改まった正月姿だった。冬は今よりずっと寒かった。まだ薄暗い寒気の中で馬が白い息を吐く。背中に積まれた荷には竹を立て、初荷と書いて下の法には屋号が打ってある。それぞれの商家は朝早くから起きて、ちゃんと身なりも整え、煮物の支度もすべて済ませて待ちかまえている。馬が得意先に着くと荷を納めてシャンシャンと手を打ち、一杯振る舞われて御祝儀も出る。何軒も回ってご馳走をいただく、働く人の年にたった一度の正月のそんな楽しみがどれほど大きいものであったか、今の人にはきっとわかるまい。
 うちの初荷はもちろん木材である。てんぼし・林屋・田嶋屋といった材木屋が荷車に乗せて、それをやはり着飾った馬が引いてくる。屋号を打った真新しい法被と腹掛けの材木屋は、「林場」と呼んでいた材木置き場に次々と運び込んでは立て掛けていく。正月に限らないが、材木には檜なら木曽とか天竜、紀州、杉ならば秋田などという産地と何寸という大きさが刷ってあったものだ。今と違って当時は、産地を見ればどういう性質の木か、扱いはどうするのがよいのかが我々にはすぐわかった。運び込まれた檜などはなんともいえない清々しい木の香りを漂わせていたものだ。
 八時ごろになると、十四、五人の出入りの大工たちが集まって初仕事をする。柱を削ったり、定規や尺丈を作ったりして二時間ほど働いた後は、芸者も加わって酒盛りが賑やかに始まる。
 そういう二日の初荷や初仕事で賑わう商家の様子はなんとも風情があったことだろう。思い出はだいたい美しくなってしまうので、実際は今の風俗と比べたら貧相なものだったかもしれないが、子供の目には浮き立つような晴れがましい情景として残っている。

注)かまくら子ども風土記・・・鎌倉市の小学生必携の本。鎌倉についての地理から歴史をわかりやすく解説している。
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kyouikuc/kodomofudoki.html

「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行 
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社