馬上人過
大正期の鎌倉駅前は閑散としていて、駅舎も駅前の二階建ての商店の軒も低く、どう見ても田舎の鄙びた駅に違いなかった。タクシーもごく少なく、商家や住まいの集まる所をちょっと出はずれると、田圃や畑が広がっていた。もちろん道は舗装などされていない。馬力屋がしょっちゅう行き交って、馬の姿はそう珍しいものではなかった。
そんな私の小学校時代の鎌倉で、印象に残っている馬上の姿が三つある。
その一人は坂ノ下の岩上さんで、私が戦前に仕事をさせていただいた沢田さんの奥様の父君に当たる方である。沢田さんとの出会いは出会いはまた後で触れたいのだが、当時の私はまだ子供で、お名前を知っているだけだった。横浜の貿易商であった岩上さんは気楽なジャケット姿のこともあったし、颯爽とした乗馬服のこともあったが、文化の進んだ横浜で手広く仕事をされている方にふさわしくいつもハイカラないでたちだった。壮年の覇気に溢れ悠々と手綱を取って由比ヶ浜通りを行くのをよくお見掛けした。ところがこの方は関東大震災の時に横浜で惜しくも亡くなってしまわれた。
もう一人の乗馬服姿は華やかな御令嬢だった。芳川伯爵家の鎌子さんという人で、その姿は小学生の目にはまぶしいほどに見えた。真っ白なワイシャツを着て、ハンチングを被り長靴で足元を固めている。つまり若くスタイルのいい美人が男装しているのである。どれほどの美人だったのかということは本当はよく覚えていないのだが、ともかくその人は馬上の男装の麗人だったのだ。町中は普通に馬を歩かせていたが、由比ヶ浜では疾駆させる。砂浜を走るその輝くような姿を何度も見た。
これらの二人の思い出は私には手の届かないハイカラな世界のものだが、もう一人わすれられないのは、それとは対照的に古風な日本の馬上姿だった。流鏑馬神事の保存に尽くし、鎌倉で今もよく知られている金子有鄰さんを若宮大路で何度か見掛けたことがあった。
『湘南の50年・湘南を築きあげた先駆者たち』(ばら出版)によると、流鏑馬は「宇多天皇のとき以来、武田・小笠原の両家が相伝してきている」とあり、鎌倉では秋の八幡宮例祭には小笠原宗家の伝えたもの、四月のかまくらまつりには武田流正統の金子氏らによるものがそれぞれ奉納されている。この金子氏の流鏑馬保存への熱意は並々ではなく、『湘南の50年・・・』には
「彼は鎌倉の扇ヶ谷にある自宅を騎射練習の場とし、敷地の一隅に厩を設け、庭はすべて馬の繋留場にかえていた。そればかりか、家人すべてを動員し、生活のすべてを流鏑馬保存に賭けたのである」
と書かれている。金子有鄰さんは銀座の新聞社の社主で、東京まで通われる時も絽の羽織に馬乗り袴姿だったというが、私が覚えているのも筒袖に袴をはき、髭を蓄えて厳めしい表情をした古武士のような騎馬姿だった。それは大正期の小学生にとって勇ましい理想の姿として目に映った。
※編者より※
言うは易し、言わぬが花
この「馬上人過」のなかの登場人物に興味を惹かれ調べてみると、芳川伯爵家の鎌子さんはすぐ検索に引っかかり、当時の新聞を賑わせた「お抱え運転手との心中事件」の渦中の人であった。いわゆるセレブの醜聞ということでかなり報道されていたようなのだが、弘雄少年にとっての鎌子さんは「まぶしいほどに見え」「砂浜を走るその輝くような姿」が印象に残ったのだろう。もう少し大人になってから、その心中事件のことなども知っていたろうに、ここには記していない。興味本位に書かれた心中事件より、生きた人間を伝える記録となっているのではないかと思う。
https://bunshun.jp/articles/-/52167
https://bunshun.jp/articles/-/52168
「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社