目を患う

 昭和四年、工業学校を卒業した私は、麻布十番にある母の知り合いの山尾工務店に住み込みの見習いに出された。そこは池上本門寺の塔や日光の東照宮の工事にも入っている神社建築専門の工務店だった。月給は三十五円。親父は、宮大工の正統なやり方を学ばせ、また使われるものの立場も息子に経験させようと思ったのだろう。一年そこにいる間は、芝の増上寺の通元院境内の瘡守稲荷の新築工事が主な現場だった。
 そうして余所の家に寝起きすることにも大工の仕事にもだいぶ慣れてきたころ、現場でゴミが右目に飛び込んでしまった。瞬きしたりちょっとこすったりしながら痛みをしばらく我慢していたが、どうにもしようがなくて、井戸端に洗いに行った。そこで少し楽になったと思ったのに目の中のごろごろしたような違和感がなくらんらない。しかも日を追うにつれてだんだんそれがひどくなる。右目は痛くて開けていられる状態ではなくなった。霞町の赤十字病院で見せたところ、角膜が傷んでいると言われた。その上治療を受けても悪くするとこのまま失明するかもしれないという見立てだった。こんなひどい衝撃はなかった。それは両親も同じだったろうと思う。
 当時、眼科は片目から発病するともう一方の目も悪くなるといわれていた。今はどうなのかはわからないが、進んだ治療法などあろうはずのない昭和五年のことである。本当に両目の視力を失うのか、それとももしかしたら傷が治ってすっかり回復することもあるのか。私は強い不安とわずかな希望との間で揺れ動いていた。
 ある医師から秩父の長瀞に評判のいい眼科医がいると教えられた。それは落合芳三郎という先生で、角膜の治療では第一人者として知られており、長瀞に療養所を開いているということだった。藁にもすがる思いでそこの療養所に行ってみるしかなかった。両親にすれば病気になった子供を手元から離すのはとても不安であったろうし、また経済的にも転地は大きな負担だったろう。しかし眼科の治療は長くかかるから田舎でゆっくり静養するのがいい、埼玉県ならあまり遠くもない、そう考えて長瀞行きが決まった。
 落合医院は山間の農村地帯にあった。商家の少ない小さな町のはずれに病院が建てられていて、患者は農家に分宿して診療の時に病院へ行くようになっていた。評判のいい病院なので患者がいろいろなところから何百人も来ている。病院が農家の部屋を借りて賄いを頼み、そこに三、四十人が寝泊まりをする。そういう農家が七、八軒あった。
 荒川の上流にある長瀞はよく知られている観光地だが、昭和初年の頃は非常に静かな所だった。渓谷がすばらしく、川辺の岩も浅瀬の石も美しい色をしている。名物だと言われて見に行った大きな岩は薄い紅色をしていた。しかし何よりよかったのは川の流れが澄んでいることだった。散歩に出て、河原の砂地のところを歩いたりして浅瀬に入っていくこともある。河鹿の声を聞きながら夏場はずいぶん水遊びをしたものだ。春はカタクリ、秋には女郎花や藤袴が小さい花を付けているのを見つけたりもした。
 しかし、一番印象に残っているノは養蚕を営む農家が多かったということだ。山間の土地だから畑も痩せていて、麦くらいしか収穫できない。だから養蚕をするしかなかったのだろう。散歩の時に畑で働く人を見たり、また泊めてもらっている農家の人たちの様子を見るにつけ、農業というのがどんなに大変な仕事かを、初めて身に沁みて感じたように思う。また生糸が日本の産業にとってどんなに重要かということも知ることができた。
 一緒に泊まっている患者は長野県から来ている人が多かった。長野県も養蚕の盛んな土地だ。こんなところに療養に来られるくらいだから、農業をしている患者もその中では生活が比較的楽な方だったに違いない。しかし話題は生糸の相場のことが多く、常に今の相場がいくらしているかと熱心に話し合っていた。それが直接生活を左右することだったからだ。生糸からの収入は米に比べて三倍以上も割がいいので、貴重な現金収入だったらしい。けれども病院のまわりの長瀞の農家の人たちは日々激しい農作業に追われている。生糸の相場を話題にしている人たちも、故郷に帰れば同じ激しい労働をするのだろう。そう思うと生活していく大変さが、若い私にも伝わってくるのだった。

 昔の農家の田の字型にしきられた大部屋で大勢の患者が寝起きを共にするから、実にさまざまな人たちと話をする機会がある。長野県から来ている人が多かったが、千葉や東京からもかなり来ていて、出身地は関東一円にわたっている。また、刑事、漁師、音楽家とあらゆる職業の人がいて、それが私には大変勉強になった。
 そういう人たちの懐かしい思い出が無数にある。例えばこんなことがあった。
 種や苗を商っている近藤さんが私を手招きして部屋の隅に呼ぶ。
 「石渡さん、あんたは中学を出ているから字を書けるでしょう?」
 「はい、書けますが」
 「じゃあ、ちょっと手紙を書いてくれないかなあ。頼むよ」
 その時分は字を書けない人がまだかなりいた。近藤さんは「薬屋の娘に惚れてしまった、是非ラブレターを出したい」というのだった。その娘は私も顔を知っていたが、なかなかの美人である。近藤さんはもう中年でしかも妻帯者なのだが、真剣な顔で代筆を頼んでいる。二人で文章をあれこれ考えながらやっと一通のラブレターを書き上げた。しかし首尾は芳しくなかったようだ。近藤さんはしばらくの間しょぼんとしていた。
 中年の人といえば郵便局長をしている四十二歳の人がいた。栃木県の鹿沼から来ているその人はインテリでいつも本を読んでおり漢文の素養があった。そばに行くと漢詩の本を見せていろいろと説明してくれる。七言絶句の漢詩で「ここはこういう言葉を使って、こうして作るんだよ」と丁寧に教えてくれる。どういう詩をその時読んだのかは今はみんな忘れてしまったが、私は勉強を習うようにして郵便局長の話を聞くのが楽しみだった。その人が九十歳で亡くなるまで、その後も手紙のやり取りをしていた。
 目の病気を持つ患者たちはそれぞれ、失明するかもしれないという同じ不安にいつも怯えている。そのため話題は眼病のことが多かったが、それぞれが抱えている家庭の悩み事に及ぶこともあった。治療にかかる金銭的な問題、長く家庭を空けるための家庭的な問題などである。私の場合は親父がきちんきちんと送金してくれて、それを郵便局に取りにいくだけである。自分は非常に恵まれているのだと思った。
 患者たちは一人に何か困った問題が起きると、何人かが寄り集まってその人の相談に乗っていた。私は二十歳なのになぜかよく相談役にさせられた。千葉から来ていた三橋さんという年老いた漁師の人は、話が始まるとすぐ「石渡さん、あんたどう思う?」と聞いてくる。聞かれれば私も真剣に考えて、「ああじゃないか」と答えたりする。今から思うと若いくせにけっこう偉そうな態度をしていたせいかもしれない。
 長野県の暮らし向きのわりと楽な農家から来ていた若い山崎さんが、私に相談に来た。どんな内容だったかもう覚えていないのだが、私の言葉で山崎さんはぽろぽろと涙をこぼした。そして次の日から私を「兄貴、兄貴」と呼ぶようになった。山崎さんの方が年は一つ上だから、私にはその呼び方がくすぐったくてならなかった。私が退院した後、山崎さんは鎌倉まで遊びに来てくれた。一年ほどたって、馴染になった人たちの見舞いに再び落合病院を訪ねたら、山崎さんは何かの病気で亡くなっていた。
 若い患者たちの間にはむろん恋もある。これは信じてもらえるかどうか、私のところにも恋文が来たことがあった。差し出し人の名前は男になっていて、中には「どこかで会って話したいことがある」とだけ書かれている。結局私は行かなかった。もう一回の手紙は学校の先生の娘だった。こうしてみると昔の女性も意外に積極的なところがあったのだ。この手紙には私も返事を出して何度か会い、鎌倉の家に帰ってからも文通が少し続いた。女の人と付き合ったのはそれが最初で、おくての恋はなんとも淡い間柄のまま終わってしまった。

 落合病院の宿舎はいわば当時の世相の縮図だった。昭和二年に渡辺銀行の取り付け騒ぎがあり、昭和四年には世界恐慌が起きている。日本でも株式が大暴落し、私が落合病院にいた昭和五年にかけては不況が深刻なものになっていた。それは今の不景気とは比べ物にならないひどいものだった。失業者が溢れ、大学を出ていてもそれが全く就職の役に立たない有様だった。農民がどうにも暮らしていかれず、やむなく娘を身売りしているという話がたびたび新聞に載っていたが、私の知り合いの中にも娘を芸者に売った人があった。
浜口雄幸首相が東京駅で狙撃された事件のことも忘れられない。農民の貧しさはひどいものだったが、世界恐慌で生糸の価値が暴落したのお大きな打撃だったろう。
 前の部分で、長野県の人は養蚕の盛んな土地柄のせいか、社会情勢にとても敏感だった。教育の盛んな県民性もあったのかもしれない。その人たちが議論を始めると、すぐに左翼がかった人がこれに加わる。すると今度は右翼の人が反論する。大地主が強く小作人が多かった新潟県の人が農民の貧しさを話す。若い人が急進的な意見を述べると、四五十代の人が穏健な見方を言う。夜は寒いし、ラジオもテレビもない。何もすることがないから蕎麦やうどんの夜食をとりながら盛んに議論をする。朝の散歩の時間にもまた同じ話題が出る。そうした議論を聞く中で、学校を出たばかりの私は社会の仕組みや政治の問題に目を開かれていった。
 また、人が集まればすぐ歌が出る。ちょうどいろいろな地方の小唄が次々とできていたころで、その作曲家として知られている中山晋平は長野県中野の出身だった。故郷を愛する信州の人が中山晋平作曲の小唄をよく歌っていたのを忘れられない。「中野小唄」はこんな出だしだった。
 「信州中野は奥出の都
 ヨイトコラドッコイセノセッセッセ・・・」
 今でもこうして覚えている歌がたくさんある。
 私たちはいつ症状が悪くなるか、いつ家に帰れるか、不安な気持ちを常に抱えていた。そういう最低の精神状態を味わったことは、私にとって心の修養になった気がする。また農家の貧しさを病院のまわりの畑で働く人から直に知り、患者の口からも聞くことができた。様々な考え方や思想も、それぞれの立場の人から聞かされた。落合医院はちょうど人生の学校のようなものだった。青年の一時期にああいう場所にいたことが私にどんなに大きな影響を与えたか計り知れない。
 昭和五年のまるまる一年間を長瀞で療養し、私の症状はそれ以上に進行しなかったが、注射のせいで右目がやや斜視になり、視力も失われた。現在のような医療水準であったら簡単に治っていただろう。残念だった、そういう気持ちは今でもある。しかし、落合病院で多くのことを学び、また左目が悪くならずに済んで今もよく見えるころは、私にとって不幸中の幸いだったと思っている。

「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行 
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社