結婚

 関東大震災の混乱も収まった大正十五年、親父は三回目の家の新築をした。上棟式は、餅を投げたりして近所や知り合いに振る舞い、盛大にやったことを覚えている。ずいぶん頑張って働いたのだろう。震災で傷んでいた家がすっかり新しくなった。
 しかし親父は心臓を患っていたせいか、そのころから稼業がつらくなっていたようだ。落合医院から帰ると、私がどんどん任されるようになった。どちらかというと私自身が積極的に出ていったという方が当たっているかもしれない。心臓の病気では急にいつ何が起こるかわからない。なんとか早く一本立ちしたい、親父が元気なうちに仕事を覚えたい、私はいつもせかされるようにそう思っていた。そのうち鎌倉でも一人でずいぶん仕事ができるようになった。
 別荘を建てる機会が増え、お得意さんの中には東京の本宅も直したいから是非やって欲しいという人もいる。その中の一人に日江井(ひえい)さんという方がいた。日江井さんは巣鴨の刺抜き地蔵の近くの古い家を買ったのだが、それを鶯谷の根岸に移築したいから私にやってくれないかということだった。昭和十年、私が二十四歳のころだ。
 日江井さんの買った家を解体して運ぶ作業は私が一人で指図した。その時分景気が引き続き悪くて、壊した材木やなにかを野積みにして放っておいたら、いつ盗難があるかわからない。そこで豪壮な邸宅に、夜たった一人で見張りとしtれ泊まり込んだ。電気は取り壊しのために全部外してあるので、陽が落ちると真っ暗になる。泥棒が来れば私がひとりで防がなくてはならない。何事もなく根岸に移築した時は、大変な仕事をやり終えたという気持ちでほっとした。
 ずいぶん気を張って仕事をしたが、私のその働きぶりを日江井さんが見込んで下さったのか、ある時御夫妻と話ししていると、奥さんが
 「石渡さん、どうでしょう。こんなお嬢さんがいるんですけど」
 そう言って写真を見せて下さる。感じのよさそうな人だと思った。
 その人は喜多川学子(さとこ)という名で、私より二つ年下だった。日江井さんに引き合わされた日は雪が降っていたから、昭和十年の十二月頃のことかもしれない。二人きりになった時、ちょうど見たいと思っていた映画があったので、有楽町の宝塚映画劇場に誘った。シェークスピアの『真夏の夜の夢』、それは私の好きな物語だった。主演のアメリカのギャング俳優ジェームス・キャグニィも背は小さいがきびきびしたいい俳優である。映画の記憶で、逆にその日のことをはっきりと覚えている。
 その時ずいぶんいろいろな話をした。「私のほうからそちらに出すような条件は別にないけれど、こちらには両親がいる。大変なことだし、それでもよかったらいらっしゃい」と言った。そうしたら「それでもいいです」という答えだった。帰りは日暮里の自宅まで送った。
 両親は「易でも見てもらった方がいい」と強く勧める。それで東京の芝の石竜師という有名な占師のところに行って写真を見せたら、「いいでしょう」と言う。「とてもいい」という言い方はしなかった。「きつい人だ」とも言っていた。うちに帰って両親には「とてもいいらしいよ」と報告した。もともと私は易など信じていなったのだ。
 昭和十一年四月二十九日、天長節の日に私たちは式を上げた。翌日には仕事があり、二ヶ月後にやっと二人、箱根へ日帰りで出かけた。それが私たちのささやかな新婚旅行だった。

「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行 
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社