幼な子を失って
結婚の翌年の昭和十二年、私たちは娘に恵まれ、祖母の名をとって富美子と名付けた。家内の学子は非常に愛情濃やかで、子供をよく可愛がった。それは母親として当たり前のことかもしれないが、学子には骨身を惜しまない献身的なところがあった。翌々年、双子の登志子と美代子が生まれ、家内の忙しさはさらに増した。
もうすぐ八月というころ、私が仕事に出ようとしていると、ばかに富美子がぐずっている。汗疹か何かで機嫌が悪いのだろうか。私は家内に
「富美子はどうしたんだ」
と声をかけた。
「どうも熱があるようなんです」
「じゃあ、先生に診てもらわないといけないかなあ」
そういう会話を交わして家を出た。夜、帰ってみると富美子は医者からもらった薬を飲んで寝ていたが、おなかの具合が悪く、おまけにひどく吐いたという。その夜中も容体は変わらず、家内は下してばかりいる子供の世話で眠れなかった。
医者にかかっているのに吐き下しがちっともよくならず、富美子はなんだかますます状態が悪くなっているように見える。また往診を頼むと、医者はもしかしたら疫痢ではないかと言い始めた。「どうして最初からそれがわからないんだ」と怒鳴りつけたい気持ちだったが、文句を言っている場合ではない。大仏の近くの鎌倉病院に慌てて入院させたが、非常に危ない状態だという。下の双子の娘を義母に預け、家内は病院に泊まり込んだ。
私はいてもたってもいられなかった。しかし仕事もある。合間を見ては病院に行くが、富美子はぐったりとしたまま昏睡状態になっている。憔悴したその顔がなんだか一回りも小さくなったような気がする。子供の手をずっと握っている家内が
「今日、少し痙攣を起こしました」
と半分泣き声で言う。この状態はいったいどうしたことだろう。つい何日か前までは何事もない穏やかな家だったのに。私は神に仏に祈った。この子が助かるものなら自分はすべてを引き換えにする、そう思って祈った。しかし祈りは通じなかった。八月十五日、小さな富美子は息を引き取った。
家内は泣いて立ち上がることもできない。私もどうしても涙を止めることができなかった。葬儀を執り行えたのが不思議なくらいだった。いろいろな方が気の毒がり、お悔やみを言ってくれたが、子供を亡くした苦しみは経験した人にしかわからないだろう。ちょうど可愛い盛りだった。あどけない富美子の口元から出る言葉に、家中で大笑いをした。そういう思い出が少しでも浮かぶともう堪えられなかった。
私は子を失ってから、宗教ということを自分なりにずいぶん考えた。そして神や仏に頼るというのでは本当の宗教ではないと思い当たった。自分がどうするか、考えて考えつくすのが本当の宗教のような気がする。神や仏といったものを簡単に切り捨てることはできないし、それは非常に重要なものだと思っている。だからそれを自分がどう取り入れて生きて行くのかが大切なことではないだろうか。自力で考え、自力で自らを救うのでなければ本当ではないと思うのである。
吉川英治の書いた『宮本武蔵』のなかに、これから一乗寺下り松の決闘に出かけて行く武蔵が、お社に参る場面がある。鈴を振って祈ろうとして、「神はないともいえないが、恃むべきものではない」と思い直し、手だけを合わせる。私もちょうどそれと同じ気持ちだ。祈ることはする、しかし神や仏を頼んではならないといつも自分に言い聞かせている。神頼みをしてお願いする、それで救われると思うのは間違いだ、そういうことは有り得ないと思っている。
思わず長い話になってしまった。子を亡くして以来、宗教やその歴史の本をずいぶん読み漁ってきたのも、自分の心の拠り所をどこに求めたらよいのかをなんとか探ろうとしてきたのだと思う。そして今もそれは続いているし、きっとこれからも探り続けるのだろう。
「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社