進学
時代はやや前後するが、私の通った第一小学校の思い出も書き留めておきたい。
両親の躾は厳しかったが、勉強については今の子供のように喧しいことを言われた記憶はない。当時の小学生はほとんどが同じようなものだったろう。だから私は勉強が全くできない方ではなかったが、特別できる方でもなかった。
五年生になった時、匂坂先生という方が担任になった。鎌倉師範学校を出て第一小学校に赴任したばかりの先生は若々しく、生徒の教育に張り切っていることが、私たち子供にも肌で感じられた。スポーツマンで美男子、女の子にも大変もてた。思い出の中にそんなさわやかな青年教師という印象が強く残っている。
四月の新学期が始まってまもないある日、国語の時間のことだった。教科書の文章を読み終わったところで、先生が
「この文章の中には書かれていないが、作者はいったい何を言おうといるのか、わかる人はいるか・・・。石渡、どうだ?」
と指名した。先生の授業に引き込まれて文章をじっと読んでいた私は、書かれている内容の言外の意味がわかるような気がしていたので、それを答えてみた。すると先生は
「よくわかったなあ。お前の答えが正解だ」
と嬉しそうに褒めてくれた。褒められた私の方はもっと嬉しい。この先生の一言でいっぺんに勉強が好きになった。面白いと思って勉強すれば、内容も理解できるから、それから国語がどんどん上達する。算数はもとから好きだったので鶴亀算などの応用問題もよくできるようになる。こうして匂坂先生は私の中に眠っていた意欲を日来だしてくれた。先生の顔を思い出すたびに、いい恩師にめぐりあったものだと思う。
私の成績があがっていくのを見た親父とおふくろは喜んで、これはぜひ進学させなければと考え始めた。私の祖父は旧前田邸を建てるときにも参加した腕のいい大工だったと、親父がよく自慢していたが、昔の庶民に額があろうはずはない。親父自身も義務教育制がしかれた時に長谷寺で開かれた小学校に通ったりしたものの、それは半ば寺子屋風のもので、きちんとした勉強をしていなかった。「俺は軍隊でやっと字を覚えた」とよく言っていた親父には、学がないために悔しい思いをした経験がきっとあったのだろう。
だから私の教育には熱心なところがあった。高価な蓄音機をどこからか手に入れて、フィガロの結婚、トルコ行進曲といったレコードもかなり揃えてくれた。また当時の子供にしては珍しいことだったが、私を幼稚園に通わせた。袴姿をした園児の卒園記念写真が今も手元にあるが、それを見ていると子供にはできれば教育をつけさせたいと考えていた親父の気持ちがなんとなく伝わってくるような気がする。
大工の棟梁の跡継ぎにするということは決まったことであるにしても、これからの大工は字も知らないようでは駄目だ、建築の建て方もどんどん変わって行くだろうから、より高い専門の知識も知っておく必要がある。親父はきっとそんなことを漠然とながらいつも思っていたに違いない。私自身も同じ気持ちだった。子供の時からまるで自分に与えられた天職のように、大工の棟梁になることを疑ったことすらなかったが、できることなら是非上の学校に進みたかった。こうして両親ともよく話し合って県立の神奈川工業学校を受験してみることになった。
実業学校や中学校が建てられ始めたのは、明治二十年代末から三十年代にかけてのことであるらしい。神奈川工業の他には商業学校、農業学校が一つ二つできているくらいで、中学の数もまだほんの数校だった。したがって私のクラスも進学する生徒は非常に限られていた。当時は第二小学校と御成小学校が分かれてしまう前だったから、第一小学校の全校生徒数は二千人くらい、一学年が三百人以上いただろうか。その中で進学希望者は二十人もいない、しかし神奈川県立工業高校には県全体からと東京や千葉からの受験者も多く、震災地の建築ブームの影響もあったため入学試験はかなり難関であった。
神奈川工業建築科の受験科目は数学、国語、綴方と、もうひとつ図案があった。図案というのは図画のことで、私はこれが苦手だった。進学希望者には山口先生がついて算数、国語の補習をしていたが、それ以外に六年のクラス担任だった梅沢先生は図画の黒川先生に私たちのために週一回の補習をしてくれるように頼み込んでくれた。黒川先生は熱心で、放課後外が真っ黒になる六時ごろまで付きっきりで私一人を教えてくれたことも忘れられない。
横須賀線がまだ電化される以前のことで汽車も本数が少なく、受験開始時刻に間に合いそうもない。そこで前日、親父は私と一緒に鶴見駅前の辰巳旅館に泊まり込み、翌朝、東神奈川の学校まで付き添ってくれた。この時ほど親の有り難みが身に沁みたことはなかった。
匂坂先生に受けた影響は大きく、感謝の気持ちは忘れたことはないが、私の卒業の時にはすでに学校にはいらっしゃらなかった。六年生の時、先生の考え方が新旧のふたつに割れて相沢善三校長の排斥運動が起きた。どのような経緯があったのか子供たちには何もわからなかったが、ストライキのようなこともあって、進歩派の急先鋒だった匂坂先生は学校を追われてしまったらしい。私たちの卒業する姿を見ていただけなかったことは今も残念でならない。
「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社