晨風清興

 戦前に深い御縁のあった方々のことを書いたが戦後は清泉女学院に一方ならぬお世話になった。その仕事が会社を興すきっかけになったと言っても言い過ぎではない。
 娘の登志子と美代子は郡山の帰郷後しばらくして、横須賀にあった清泉小学校に転入した。運動などで私も父兄としてお手伝いに学校へ伺ううちに、娘の担任の先生だったシスター・山路(山路鎮子先生)や校長のシスター・ラマリヨ(エレステナ・ラマリヨ校長)と知り合うようになった。
 清泉女学院は聖心侍女修道会というスペインのカトリック系修道会が運営している学校である。当時は本部が初台にあり、そこで幼稚園を建てる時に私に仕事をやらせて下さったのだ。今は本部が五反田に移ってしまい、私の建てた木造の園舎はもうなくなっているが、この工事が公共性の高い建築物を手掛けた最初である。
 娘のお世話になった清泉小学校は、はじめ横須賀の海軍工機学校の校舎を使っていたが、鎌倉移転に当たって雪の下の神田邸を借りて、普通の別荘だった日本家屋を教室にした。その建物が火事で焼けてしまったため、私が敷地内にブロック造りの新校舎を建てることになったのである。清泉女学院が鎌倉ではじめに建てる校舎を任せてもらうことは私には非常に嬉しかった。それからは校舎の他に礼拝堂や講堂も建てさせていただき、四十五年から校長になられたシスター・山路にも大変お世話になった。
 清泉女学院の中学が横須賀から鎌倉に移転する時に、いろいろなご相談を受けたりしたこともある。昭和三十八年頃、東急が大船の玉縄城址の辺りを大規模に開発するが、その地域の中に学校を作る計画があり、清泉に白羽の矢が立った。私もシスター・ラマリヨに請われて一緒に現場を見に行ったり、依頼を受けて私と弁護士の梅沢さんと福地さん、たしか三人が父兄として東急との交渉に当たった。
 シスター・ラマリヨと私はどこか気が合ったのだと思う。性別も生まれた国も仕事も全く違うのに、話をしていると何か共感が沸いてくるのが不思議だった。
 清泉の仕事をするうちに他の修道女の方々とも知り合った。小学校講堂の新築現場の事務所で、あれはどういうきっかけからだったのか、明るくて気さくなシスター・パスという方がビゼーのカルメンの一節を歌い始めたことがあった。よく透る柔らかい歌声が伸びやかに流れた。俗世を捨てた修道女の方であるが、校舎が新築されるという喜びの中で口をついて出たのは故郷のスペインの歌だったのだ。私はしみじみを聴いた。今でもあの時の歌声がはっきりと耳に残っている。
 シスター・ラマリヨは私にカトリックへの入信を勧めて下さった方である。お会いするうちにいろいろ宗教の話になることもあった。ある時
 「石渡さん、そういうことならカトリックの信者になりなさい。雪ノ下の教会の神父さんに話してあるから、ともかく行って御覧なさい」
 と言われた。教会には夜、二カ月くらい通っただろうか。けれどやっぱり私は神を信じるという気になれなかった。
 「嘘は申し上げられない。私はどうしても神を信じることができません」
 そう言うと、シスター・ラマリヨは
 「それはしょうがないことですね。残念ですが・・・」
 と本当に残念そうにおっしゃった。けれどもそういうことがあった後も、付き合って下さる関係には少しも変化がなかった。
 シスター・ラマリヨが聖路加病院で亡くなる前、お見舞いに伺った。けれどもその時はもう意識がなく、言葉を交わすことはできなかった。本当に立派な方だったと思う。娘の学校の校長先生であるとか、私の仕事のお得意さんであるとか、そういう関係を越えたお付き合いだった。生涯に一度巡り合えるかどうかという稀な御縁の人に、私は巡り合うことができたのだと思う。

 こうして私は様々な方のお陰で昭和二十九年十一月、会社を興すに至ったのである。別天地が目の前にこれから開けるような気持ちの中で、新会社の名前もいろいろと考えた。
 私は田園詩人といわれる陶淵明の漢詩にずっと惹かれてきた。俗世の汚れを拭いきったようなその遙かで澄みわたった世界に浸っていると、心が洗われるような気がするからだ。その漢詩集をぱらぱらと見ているうちに、中でも最も好きな『帰鳥』という詩の一節に目が止まった。

   晨風清興     晨(あさ)の風
   好音時交     好ろしき音を時に交ゆ

    (朝風が清々しくたちはじめると、時に好ましい鳴き声を交えてみる)

 清々しい朝風の中に小鳥が楽しそうに鳴きながら安らいでいる。こういう境地を誰もが求めているのではないだろうか。「清」という字には精神的な理想を感じる。それはお世話になった清泉女学院のシスター・ラマリヨ、シスター・山路、その他の修道女の方たちの、私欲を越えた誠実さにも通ずるものである。また我々の造る建物が、お得意さんにとってこの詩のような清々しい場所となったらこんなに嬉しいことはない。この詩を見ているうちにそういういろいろな思いがわきあがってきた。会社の名は是非「清興」としよう。そう決めた。
 シスター・ラマリヨにお会いした時、社名には清泉女学院の「清」の字を使うというお話をしたら大変に喜んで下さった。こうして「清興建設」が出発したのである。

 ところで、私の大事なメモ帳には会社設立当時の事務所のスケッチが貼られている。それは加藤勝俊君の手になるスケッチである。長谷の自宅を使ったため、事務所といってもたったひと間しかない。入って右手のドアの外に階段があって二階が社長宿舎、左手のドアを開ければもう私の自宅となる。所内には製図台が一つと図面置き場び台、あとは事務机が二つ、三つ。天井に棚が吊ってあって丸めた図面がたくさん入っている。スケッチの横の私の添え書きには
 「社員三名、借金もあり、苦しきもあり、先を見つめての出発なり」
 とある。
  会社を作ったはじめというのはどこも似たりよったりだと思うが、受注の難しさ、資金繰りの苦労など、困難が山のようにある。三人の社員、義弟の喜多川環、富岡光太郎君、加藤寬治君はそういう意味では労苦を分かちあった同士のようなものである。建築の知識が豊富な喜多川は設計、加藤君は経理、富岡くんは技術をそれぞれ担当していた。他に創業当時にはすでに飯岡君もいて技術を担当していた。しかし加藤君や富岡君は今はすでに故人となっている。
 こうして三、四年たつころには若い人たちも入ってくるようになった。西岡君は卒業と同時に入社した清興の生え抜きということになる。加藤勝俊君は喜多川組を経験した後、すぐにうちにきてくれた人である。この人たちはもう四十年近く清興のために働き続けてくれている。本当に有り難いことだと感謝している。
 考えてみればこのスケッチのころ、会社は自動車すら所有していなかった。
 「社長、しっかり掴まって下さいよ」
 「おう、大丈夫だ。出してくれ」
 現場を回る時もこんな調子で、西岡くんがハンドルを握るオートバイの後ろに乗せてもらったりしたものだ。
 こういう古くからの人たちは、皆私の自宅に住み込んでいた。なにせ食べ盛りの若者ばかりである。家はまだ経済的に楽ではなかったから、夏の間二カ月ほど海に遊びにくる知り合いに部屋を貸していた。その人たちが食べたいと言ったら、昼食も出さなくてはならない。おまけに五人の子供たちもまだ小さかったから、忙しい中で家内はいつも二十人以上の食事を作っていたことになる。お手伝いの女の人がいたとはいえ、苦労は並みたいていではなかったろう。
 喜多川の義父は、これからの女は手に職を持っていなければならないという考えの持ち主だった。それで家内は順徳女学校を卒業した後、日本で最初につくられた栄養士養成の専門学校である佐伯栄養学校に行った。そこを出て成城学園の幼稚園で栄養士として働くうちに、私との見合い話が持ち上がったのである。だから大人数での料理はお手のものだったし、実際に美味しい料理を作ってくれた。家内が愚痴を言ったことは一度もないが、どんなに大変か私もよくわかっていたつもりだ。今でも亡くなった家内に非常に感謝している。せっかく手に職があったのに家庭に入ればそのまま家事に追われてしまい、かわいそうなことをしたと時々思い返すことがある。
 ともあれ、当時の会社には若い人がごろごろいて、寝起きを共にしていた。時には喧嘩もあったかもしれない。長い間には私モヒとを使っていく上での苦い経験をしたこともある。そんなことはあって当たり前、ないと言ったら綺麗事になってしまうだろう。けれども大きな諍いはなかったし、お互い穏やかにやっていたと思う。それに何よりも創業の若い熱気に溢れ、誰の心にもこれから会社を大きくしていこうという夢があったのではないだろうか。

「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行 
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社