関東大震災

 大正十二年九月一日、あの日をくぐり抜けた人は生涯、その体験を語らずにいられないのではないだろうか。
 二学期の始業式、校長の訓話と担任の先生の諸注意などを聞いて、生徒たちはまだ午前中に帰宅した。私は鎌倉第一小学校の六年生だった。近所に多い松の木が道に濃い影を作り、油蝉がうるさいくらいに鳴いている。
 家には珍しく昼から親父がいて、おふくろが昼食の簡単な支度をするあいだ、団扇で胸に風を入れながらのんびりビールを飲んでいた。突然、ドーンと畳ごと身体がひっくりかえされるような衝撃が来た。ちゃぶ台もコップも丼もふっ飛んで、神棚からものが降ってくる。ぐらぐらと前後左右に激しく揺さぶられて座っていることもできない。水屋が倒れて中の瀬戸物の割れる音が凄まじい。
 「ヒロちゃん! ヒロちゃん!」
 おふくろが台所から這いだしながら、悲鳴のような声で名前を呼ぶ、親父は
 「おい! おい!」
 と意味をなさない大声をあげる。壁土がバラバラと落ちる中で、いつのまにか三人が違いにしがみついていた。七十年以上たった今だから当時の様子を思い出せるが、実際その時は激しく揺すぶられるままに悲鳴をあげて、うずくまっているだけだった。
 最初の激震が過ぎて、しばらくすると、パチパチとはぜるような音がして近所のあちこちから白い煙が上がり始めた。
 「助けてくれ! 誰か誰か、助けてくれ!」
 向かいの宇都宮回漕店の別荘から叫び声が聞こえる。別荘番が飛び込んできて「手を貸してくれ」というので、親父はそっちに駆け出していった。激しく半鐘が鳴っている。火事がごく近いときに鐘の中で槌をかき回す「すり板」という鳴らし方だ。パチパチという音が大きくなっているような気がする。倒壊した家の下敷きになった店員を別荘番と一緒になんとか引っ張り出してきたという。
 急に親父はハッとして
 「そうだ浜に行かれた松平様はどうなっただろう。あちらの様子を見てこなくちゃ」
 そういうと再び飛び出していった。するとすぐ近所で
 「津波だぞ! 津波がきたぞ!」
 という声が上がった。
 「早く! ヒロちゃん、早くお逃げ!わたしは松平様のお順さんを見てくる。先に行って、神明神社かどこかに。あとから行くから」
 私は言われるままに家を出た。ゴーッと凄まじい地鳴りに後ろを振り返ると、家々が津波でバラバラに破壊され瓦礫の山となってすぐそこまでワァっと押し寄せている。この世の終わりのような光景だった。あちこちから悲鳴が上がる。日蓮宗の人が大きなお厨子を背負ってよたよたと逃げる。親に手を引かれている子供たちが火のついたように鳴く。阿鼻叫喚というのはこういう状態だろうか。地面は繰り返し大きく揺れる。時折よろめきながら、甘縄明神神社の方に向かっていても、斜めに傾いてしまっている家々がいつこっちに倒れ掛かってくるか気が気でない。
 長谷の通りの家は全部、前のめりになって倒れていた。土壁の家が倒れる時に巻き上げた猛烈な埃の中で顔をしかめて見上げると、埃の上に広がる空は真っ青に晴れ渡り、巨大な入道雲が上っている。身震いするような恐怖が体を貫いた。
 道を渡った神明神社の所は、今は家が建て込んでしまったが、当時を石段の前が広場になっていた。そこにはすでに大勢の人々が避難してきていた。

 金子晋氏の『私記 鎌倉回想五十年』の記録を読むと、最初の激震は「三、四秒間南北動・当日の余震三百四十回以上(中央気象台中村氏記録)」とある。私の感じでは阪神・淡路大震災と同じく、そこに大きな上下動も加わっていたように思う。
 また金子氏の本によると、鎌倉は「当時の全戸数四、一三八中(4138)、三、○○四(3004)が全半壊し、全焼した家四四三(443)、海嘯(つなみ)による流出一一三(113)、死亡した人四一二(412)、重傷を負った人三四一(241)」という被害を受けた。駅前を始めとしてしないのあちこちで火事が起きていた。長谷の辺りは三橋旅館付近の被害が大きかった。しかし、鎌倉駅の被害はもっとひどかったようだ。駅近くに住んでおられた金子氏は次のような哀れな有様を記している。
 「あたりをどよもす地鳴りと、家々の崩壊する郷音と、渦巻く火焔に驚いた使役の馬が、発狂の体で広場を暴れ狂い出し、人々があれよあれよと目を見張った寸時の後、衆人への危害を思った馬丁達が次から次へと荒れ狂う馬を捕らえての撲殺」。
 まことに市内のいたる所で地獄図が繰り広げられていた。
 神明神社に避難した私は真夏だというのに体の震えが止まらなかった。他の着のみ着のままで逃げてきた人々も海岸の方を呆然と眺めて、大勢の人間がいるにもかかわらず辺りは妙に静かだった。近衛様の別荘の女中が赤ん坊を背負って突っ立っている。髪はぼうぼうに乱れ、手をだらんと下げて虚ろな目をしたままだ。見ると背中の幼子は砂まみれになってもう死んでいる。しかし私はそんな光景を目のあたりにしても、それがどういう意味を持つのか頭に入って来ない。幼子は近衛秀麿候のお子様だった。女中は裸足のままじっと立ちつくしていた。
 私は親父とおふくろがどうなったか心配でいてもたってもいられない。津波が引いたという声を聞いて家に戻ろうとすると、「また津波が来るかもしれないよ」とまわりの人に止められたが、そんなことはもうどうでもよかった。走って帰ると家にはおふくろとお順さんと二人がいた。私はおふくろの無事な顔を見た安堵感で涙が出そうだった。松平様の女中頭のお順さんは七十歳という高齢で腰が曲がって逃げられない。おふくろは自分に家に連れてきてずっと付き添っていたという。別荘の松平様はいつもの年なら八月の末には東京に帰るのに、今年は珍しく九月まで残っておられた。
 親父も無事に戻ってきた。お邸のお坊ちゃん方も様子を見に出て行ったとたんに
 「津波だぞ!」
 という叫び声を聞いた。これはいけないと思う間もなく潮が押し寄せてきた。親父はあわてて松の木によじ登り、からくも難を逃れたという。
 家は床下浸水しただけで済み、流失の難をまぬがれることができたのは運が良かったとしか言いようがない。由比ヶ浜の中でも、私の家の左下手にある海濱ホテルの辺りは小高い砂丘になっている。津波はそこを避けて、ただでさえ低いこちらの稲瀬川の河口方面に押し寄せたのだろう。
 気の毒なことに海水浴をしていてちょうど浜にいた三百人余りの人々が、津波にのまれて亡くなったという。大きな海水の力によって破壊された家の材木や破片は潮が引いた後もそのまま浜に残され、海岸一帯が大きなごみ箱のようになった。
 また地震が起きてどのくらい後のことか、海賊騒ぎがあった。何人かが、徒党を組んで船で海岸に乗りつけ、被災地から金品を盗もうとして警察に捕まったのである。

 家はもはや室内とは呼べないほどに家具や什器のかけら、壁土が一面に散乱しているが、平屋建てだったので倒壊を免れた。住み込みの小僧の人たちもなんとか無事に家に戻ってきている。もう夕方になりかけていた。散らかった台所を少し片付けて、親父とおふくろは炊き出しの支度を始めた。親父が七輪に火をおこす間に、おふくろは家中の大きい鍋や釜を出してきて米を研ぐ。飯の炊けたそばから握り飯を握っていく。
 「案外、少ししか炊けないねえ」
 「どんどん炊くしかないなあ。いっぺんに持っていけるわけじゃないしな」
 おふくろはその日、深夜まで襷と前掛けをはずす間もなかった。いつも腹をすかせている私や若い小僧の人たちのために一杯にしてあった米櫃が、すっかり空になった。握り飯ができると親父は近所に配り、また私にも風呂敷で担がせて人々が集まって避難している所をまわり、知り合いやお得意さんを尋ね当てては握り飯を配って歩いた。
 当時、由比ヶ浜の通りは道幅が今の半分くらいしかなかったと思う。両脇の家はたいていが商店である。道路に面した店舗の部分は広くスペースを取るために、使ってある柱の数が少ない。ほとんどの商店がそのために道路側にのめるように倒壊し、あるいは一階部分が潰れて平屋のようになって傾き、通りが完全にふさがってしまっている。そのため親父と私は瓦礫の上を越えていかなくてはならなかった。
 津波が再び襲ってくるのを恐れて、その晩私たちは今の鎌倉文学館、前田様のお邸の空き地に避難して寝た。寝付けぬままに駅の方を眺めていると、時間がたってから燃え始めた若宮王子の小町園火の手がぼうっと赤く夜空を焦がしているのが見えた。
 九月の二十五日、第一小学校は次の五カ所で林間授業を再開した。一、二年生・海岸通りの芳川伯爵別邸、三年生・一の鳥居近くの島津公爵別邸、四年生・海岸通りの山本男爵別邸、五、六年生・大町の妙本寺本堂と境内、高等科・鶴岡八幡宮境内。
 木造の校舎は御影石作りの奉安殿だけをのこして全壊していたのである。

 関東大震災は私にとって人生を画すると言ってもいい貴重な体験となった。
 まだ小学生の時だったとはいえ、実際に激しく揺すぶられる家の中の様子を体験し、近所の倒壊した家や廃墟となった鎌倉の町を自分の目で見て歩いて、どんなに地震が恐ろしいものかは私の骨身に沁みた。だから自分の職業として、地震について万全の対策を取らなければいけないということ、さらに、いい加減な家の建て方をすれば人名に関わるものだということを、肝に銘じて仕事をするようになった。大震災の経験が仕事に対するそうした基本姿勢の原点となっている。
 地震よりさらに怖いのは火事である。だからそれぞれの建物が火を出さないためにも、耐震性に気を配ることが必要なのだと思う。二階建ての住宅の場合は一階と二階の接合部がしっかりしているか、基礎のコンクリートの打ち方はどうなっているか、鉄筋のビルであれば地盤の強さを充分確認して杭を打っているか、などということが耐震性のポイントになる。ところが法律的には制約がなく、基礎の信頼性については業者の良心に任されてしまっている。一番肝心なことが建て主の方からは見えづらいし、またなかなか注意を払ってもらいにくい。もちろん資金の問題もあるが、外観やインテリアのことを考える前に、地震の備えがどうなっているかにこだわるよう私は是非お勧めしたい。(注・本書出版は1997年。現行の法律とは異なります)
 建築のことになると、つい話が長くなる。大震災から学んだことという点で、私は自分の両親のことも、ここでちょっと褒めておきたいのだ。我が家や子供のことをおいて、地震直後に人の所に駆けつけていったこと、当然のことのように炊き出しをしていた姿、これには強い印象を受けた。家が焼けなかったから可能だったのだが、自分の事ばかりを考えずにすぐ困っている人の所に駆けつけたのは、大変尊いことだと子供心にも感じられた。人とのつながりは損得だけでは立ちゆかない。酒でおふくろをたびたび泣かせた親父だったが、人を生かしてこそ自分も生きるということを身をもって教えてくれたのだと思っている。

※海軍航空隊・航空写真【材木座、由比ガ浜・長谷、(参考)江ノ島】〔防衛省防衛研究所蔵〕https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/sougoubousai/20140307kanntoujisinkoukuushasin02.html

※90年前の「関東大震災」と鎌倉
https://lib.city.kamakura.kanagawa.jp/history/kindai2015/shinsai2013_pamphlet.pdf

※1923年 関東大震災 鎌倉1 (大正12年)9月1日
 NHKアーカイブス
https://www2.nhk.or.jp/archives/311shogen/disaster_records/detail.cgi?das_id=D0010060031_00000

「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行 
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社