人の縁(えにし)

 戦後の混乱期、私たち一家はしばらく郡山で過ごし、鎌倉に戻ってきたのは昭和二十三年になってからのことである。神田明神町の妻の実家は昭和二十年に空襲で焼けてしまい、住まいがなくなっていたから、喜多川の一家もこぞって鎌倉に引き揚げてきた。昭和十七年に長男・好行、二十年に次男・信行、二十三年には四女・勢津子が生まれて、子供も五人に増えていた。
 私は東京に本拠地のあった喜多川組に専務としてそのまま残った。進駐軍の仕事などが入った時の接待ではよくダンスホールに行った。私は酒を飲まないし、言葉があまり通じないのにずっと膝を突き合わせて話をするのもつらいから、ダンスホールが好都合だったということもあるが、何よりも私はダンスが好きだったのだ。つまり、自分が楽しみに行ったようなものだ。英語では苦労したが、こういうことも今から思えば懐かしい思い出である。
 そうした中で義父・喜多川一郎が昭和二十五年に亡くなった。戦前、日本カーボンや海軍省などで手広く仕事をしていた義父は、仕事の上でも人生の上でも、私にとって第二の父といっていいくらいの大きな存在だった。二十五年といえばちょうど朝鮮戦争が起こり、その特需景気で日本の経済復興が進み始めた時期である。義父が戦後の様々な景気の動きや建設業界の流れを見たら、なんと言っただろうかと今でも時々思うことがある。
 ともあれ景気回復の兆しが見え始めたのを機に、私は昭和二十八年に喜多川組の職を退き、故郷で自分の仕事を再開することにした。
 しかし会社設立の話を始める前に、戦前に鎌倉でお世話になっていたお得意さんの思い出をこの場で少し語っておきたいと思う。そういう方々のお陰で私は鎌倉に仕事の基盤を持つことができていたのだと、常々感じてきたからである。
 結婚する前後の二十四、五歳頃、私は鎌倉で父のかわりに盛んに仕事をしていた。営業も図面も書いたりすることも一人でやる中で、父の代からのお得意さんに鈴木さんという方がいた。ゴム会社の社長をしていた鈴木さんは私のことも信頼してくれて、鎌倉の貸家などを十何軒と注文し、さらに東上線の常盤台に自宅を建てる時にも私にやらせてくれた。そして同じゴムの仕事の関係で、自転車のチューブ会社の社長を紹介してくれたのだが、その方が私たちの夫婦の仲人をして下さった日江井さんである。前にも書いた通り、日江井さんは鎌倉の別荘や十軒以上の借家を建てる仕事も、それに自宅を移築する仕事も、若い私に全面的に任せてくれた。父の築いてきた仕事の基盤とこうしたお得意さんのお陰で、私は職業人として自立できたと言ってもいいくらいである。そういう意味でこの方たちから受けた深い恩義はけっして忘れることができない。

 さらに沢田さんも、私にとって非常に大事な方々である。この方は父の代からのお得意さんで、お子さん方とのお付き合いを入れたら、もう八十何年にもわたって親しくしていただいていることになる。当時、この沢田さんは今の市役所前の長い一帯を所有し借家を何軒も持っていたが、そこが狭くていけないということで分譲に出ていた土地を買った。ちょうど川喜多かしこさんの住まいの前あたりである。そして自宅の新築を二十三歳だった私にやらせてくれたのである。
 沢田さんはずいぶんユニークな方だった。こちらが見積もりを出す、ところがそれを決して値切らないのだ。建築費用をなんとか安くあげたいというのが人情で、こういう方も実に珍しい。沢田さんの出した注文は
 「金はいくらかかってもいい。そのかわり絶対に地震で潰れない家を建てて欲しい。君に全部任せるから」
 ということだった。これを聞いて私は「うーん」と考え込んでしまった。「けちなことは言わない。だから若くても何でも、お前はしっかりとした仕事をやれ」という大変に重い意味を感じたからである。緊張で身の引き締まる思いだった。
 私は久米権九郎先生の『耐震木造建築』を貪り読んだ。そして考え抜いた末の耐震の方法はこうである。まずパットトレースという控え柱を使って家がひどく揺すられないようにする。控え柱というのは、よく公園などで若い植木を斜めに支えている丸太を見かける、ああいうものを想像していただければいいかと思う。家の脇に何本も柱を斜めに付けるのだから、見てくれが非常に悪い。だが、沢田さんは「そんなことはかまわないから作れ」というので、鉄骨の控え柱を使うことにした。
 それから柱である。当時の普通の大工は木にほぞを入れて材木と材木を噛ませながら家の骨組みを組み立てる。軸組工法という伝統的な日本家屋の建て方である。腕のいい大工の仕上げは見事なものだが、問題は、構造上梁などが集まる箇所にはあっちからもこっちからも穴が開いて、柱の中に穴が開いて、柱の中に「す」が入ったようになってしまうことだ。地震が来ると弱くなっているその箇所から折れて倒れてしまう可能性がある。特に一階と二階の間が危ない。だからなるべく柱に穴を開けないように、木と木の組み合わせをボルトでしっかり止めることにした。こういうやり方はすでに行われていたけれど、いかにそれをやるかが大変な苦心だった。
 屋根を軽くするためには銅板で葺くことにした。瓦だと重いから激しい地震の揺れに耐えられずに潰れてしまうことがある。
 また基礎は大きく幅広くして、家全体が基礎の上で揺れに合わせて動くようにした。今の家は、基礎のコンクリートに埋め込んだアンカーボルトで土台の材木をしっかり固定してしまう。昔も同様に柱を基礎にがっちりと固定していた。すると揺れが来た際には、下が固定されている分だけ上部の揺れがひどくなり、家が潰れやすくなるのではないかと考えた。もちろん現在の工法はいろいろな地震対策が講じられているから、新しい建て方の家が簡単に潰れることはない。しかし当時は軽るくて丈夫な新建材などはまだなかったから、家も地震に合わせて動くという考え方の工法が一番合理的だと私は判断したのである。地震の揺れ幅が同じ程度だとしたら固定しない方がいい。地震に合わせて動いていれば、中の家具などは壊れたとしても、家そのものは壊れない。一昨年の阪神大震災の後、いろいろな免震構造がテレビなどで紹介されていたが、その中でもこういった考え方の工法が大きく取り上げられていたと思う。
 こうして沢田さんと何度も相談を重ね、見積もりを持っていった。費用は大変な金額に上がっている。
 「こんな額になっておりますが・・・」
と私がおそるおそる出してみると、沢田さんは
 「この年になるまで、私は無駄な金を使ったことはありません」
と言う。やっぱり金額がかさみすぎてしまったかと思ったら、そうではなかった。
 「私は金は使うけれど、無駄なことで使ったことはないんですよ。だから遊ぶために金を使った覚えもない。地震に強い家ならば、どんなにかかったも無駄とは言えませんよ」
 この言葉を、私は六十年経った今でもはっきりと覚えている。
 しかし非常に残念なことに、沢田さんは昭和十三年、四十八歳で突然亡くなってしまわれた。新築の準備がやっと整った時だった。奥様は、第一章で馬上姿をよくお見掛けしたと書いた岩上さんのお嬢様であるが、まだ若いご主人の急死にさぞ力を落とされたことだろう。私は建材などをそっくりそのまま預かっていることにして、一年ほどたってから、規模を少し縮小する形で新築をやらせていただいた。
 沢田さん御夫妻の跡を継がれたお嬢様たちとは、その後もずっとお付き合いが続いている。こんなことを言ったらかえって失礼かもしれないが、私自身は親戚のように感じているくらいだ。
 ある時、御長女が
 「いろいろ考えると、母が石渡さんに大変お世話になりました。自分が年をとってくるとそういうことがよくわかってきました」
 とおっしゃって下さった。大変嬉しいお言葉だったが、私の方こそ沢田さんから受けた恩義は量り知れないものがあったと思う。頼りない点もたくさんあったはずなのに、若い者を全面的に信頼して難しい仕事を任せてくれたということは、私の成長を力強く後押しして下さったということである。「無駄な金は使わない」という生き方も深く私の心に残った。こういうことを言い切れる人というのは大変な揺るぎない信念の持ち主である。沢田さんは私にとって人間の生き方を学ばせてもらった師匠だったと今でも思っている。

 他にも銀座のハンドバッグ店を経営していた高島さん、大倉財閥の一族であるこの方も面白い方で、戦前の一番大変な時期にたくさんの仕事をくださったし、勉強もさせていただいた。こうした方々がいらしたからこそ、戦後鎌倉で仕事を再開するに当たっての見通しが立てられたのではないだろうか。今は皆さん故人となられてしまったが、私はこの場で深い感謝の気持ちを捧げたいと思う。

「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行 
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社