太平洋戦争(二)~機銃掃射~

 戦時体制はますます厳しさを増していた。私は昭和十八年に義父から誘いを受け、喜多川組の郡山出張所の所長として働くことになった。
 義父は郡山の軍の工事を請け負っていた。通信省の航空基地の場所に、海軍の航空隊施設を作る工事だった。滑走路、格納庫、多くの兵舎が建てられ、何社も突貫工事に入っている。喜多川組もその中の一つだった。所長はあちこちに社員をやって職人や大工を何百人と集めさせなければならない。仕事のなくなった民間人は勤労動員されていたから、各動員所には私もなるべく社員と同行して作業員をまわしてくれるよう頼んでくる。集められた大工は、本当は自分の仕事をしたいのだ。それができないから仕方なく建築工事に来ている。それで私が現場事務所にいると、しょっちゅう門の衛兵に呼び出される。すぐに駆けつけると
 「バカヤロー、ここの釘をなんだと思ってるんだ、貴様!」
 という怒鳴り声がして、うちで雇った作業員が引っぱたかれている。
 「すみません、よく注意しておきますから。今日のところはそのくらいで勘弁してやってください」
 私は何遍謝りに行ったかわからない、大工たちはなんとか釘を手に入れようと、弁当箱の中に釘を隠して持ち出すのだ。うまく成功する者もいる。中には横を流れる阿武隈川に縛った釘を放り込んでおき、夜になってからこっそり取りにくる者もいる。基地はまだ工事中なので厳重な監視はしていなかったから、まさか鉄砲でも撃たれることはなかったが、そのことがばれたらどうなるかといつも心配だった。釘さえあれば大工の仕事ができるのにという作業員たちの気持ちは、私にも痛いほどわかっていた。そういう状態に置かれた人間にとってはもう国家もヘチマもないのだ。

 昭和十七年に日本ははじめて米軍機の空襲を受けた。その後ミッドウェーの海戦に敗れてから爆弾が増え、郡山への空襲もあった。私が働きに行っていたのはそういう時期だった。
 その頃になると空襲が頻繁にある。警報が鳴ると防空壕に逃げ混んでいたが、ある時は特別凄まじかった。B29が高度一万メートルから一トン爆弾を落としてくると、バババババとひどい雨のように響いてくる。あっと思った瞬間、防空壕で伏せている体がフウッと持って行かれそうになる。壕の中の空気が抜けるような感覚だった。近い、という恐怖で鳥肌が立った。実際に鏡石の現場では会社の従業員が一人亡くなってしまった。
 戦争末期は水戸沖にアメリカの航空母艦がグアム島へと全速力で就航する。それを飛び立った艦載機は、燃料の続く五分とか十分くらい爆撃して、また母艦を追いかけるように戻って行く。まるで遊びのようなやり方だが、艦載機がワーッと頭上を通って行く時の恐怖は忘れられない。機銃掃射していく時もある。我々の隠れている事務所の裏の蔵に銃弾が何発も撃ち込まれた。後で調べてみると、ボールペンを三、四本束ねたくらいの太さの銃弾が扉にブスブスと突き刺さっていた。
 私は郡山の事務所から工事現場まで自転車で通っていた。ある日、一人で現場に向かう途中、突然、警報のサイレンが鳴るのが聞こえてきた。けれども周りは桑畑で何もない。どうしようか、と思う間もなく艦載機がやってきた。慌てて自転車を放り出し、転がるように走って桑畑の高い畝の陰に身を隠した。すると飛行機は意地になったように私を狙い、今度は反対側から低空でやってきてバババババッと撃ってくる。畝の反対側に転がり込んでそれを避ける。また反対から飛んでくる。畝を境に三度、四度と身を躱す。それはとてつもなく長い時間のように感じられた、飛行機が去ってだいぶしてから、心臓が破れそうに激しく打ち、足から力が抜けているのに気づいた。今まで生きてきて、あんな恐ろしい思いをしたことはなかった。
 食料が不足して空襲の危険も迫り、昭和十九年に母が亡くなってからは家内と子供を鎌倉に置いておくのも不安になった。それで郡山の石川に疎開させて、なんとか食料だけは闇で手に入るようになったが、太平洋側の海沿いの地域はもうどこも同じように危なかったかもしれない。

 昭和二十年六月、私に召集令状が来て世田谷の部隊に編入された。終戦直前は、軍隊といっても内実はもう戦争を続けられるような状態ではなかった。まず食べるものもないのだ。それでもほんの一切れのシャケとお結び一個くらいは出ていたけれど、装備の方はひどいものだった。軍服は支給されたものの、銃がない。また鞘だけが支給されて肝心要の剣がない。だからみんな自分で竹の剣を作ってぶら下げている。朝からろくな演習もなく、夜、空襲があると壕に入って隠れてじっとしているのだから、もう軍隊とはとても言えない有様だった。風紀も乱れていて、昔なら神様のような存在である大隊長のスリッパまで盗まれていた。
 敗戦が近いと誰もが感じていた。私の上官は日大藤沢高校の軍事教練の教官をしていた人だった。その軍曹が私を呼んで
 「お前の仕事はなんだ」
 と聞く。海軍の工事現場で働いていると答えると
 「お前は帰れよ。目も悪いんだし」
 そういって、私を除隊にしてくれた。たった二十日間くらいの軍隊生活を送っただけで、私は郡山に帰ることができた。その軍曹は日本の敗戦と自分の餓死をすでに覚悟していて、助かるものは助けてやりたいと思ったのかもしれない。その人の顔は思い出せるのに、名前を忘れてしまったのが今でも残念でならない。
 塞翁ヶ馬という諺がある。終戦直前にどこかの戦地に送られていたら、きっと今頃は生きていられなかったろう。目が悪かったために私は命びろいをした。何が幸せで、何が不幸につながるかは量り知れない。人間にはこういう巡り合わせということがある。

「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行 
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社