経営者として

 昭和三十年に入ると松下電器産業、三菱電気、資生堂、聖ミカエル学院などの仕事を次次とやらせてもらい、これらの受注によって会社は活況を呈し、引き続き清泉じょがくいんを始めとしてハリス幼稚園や豊島屋さん、井上蒲鉾店、一翠堂ビルなど地元の仕事をたくさんいただくようになった。特に三十九年のオリンピックのころが一つの節目になって、それからは営業面がずいぶんと楽になっていった。
 オリンピックの建築ブームの反動もあって、昭和四十年代初めはなべ底不況といわれ、景気がやや低迷した時期であったが、我社はビル建築から木造住宅まで受注内容も多岐にわたって順調な伸びをみせていた。こうして長谷の自宅の事務所がなんとも手狭になってきたころ、ちょうど大町四つ角の貸しビルの新築工事を請け負ったのである。施主の一柳さんの話では二階を事務所として貸すつもりだという。この仕事を担当していた好行は移転を提案してきた。大町は古くから開けた商業地域であるし、鎌倉駅にも近いから、会社の場所としてはうってつけである。こうして昭和四十三年、百苑の二階に事務所移転が成った。
 高度成長期に入って経営が安定してきたのだが、私にはこの辺で公共工事を手掛けてみたいという気持ちがあった。大きなことをやりたいという欲望があったのかもしれないし、また鎌倉はその頃まだ鉄筋の大きな建物が少なくて、仕事が取りやすいのではないかという見通しもあったのである。
 それがかなったのは昭和五十二年の七里ヶ浜高校の新築工事だちた。ただ、受注や各部門の業者さんのことなどで大変な思いをしたことも事実である。細かい苦労を挙げていけばきりがない。公共事業というのは各業者への発注が一定の時期に集中してしまうきらいがある。しかも工期が非常に限られているから、あっちでもこっちでも職人を確保しようと躍起になる。それで鉄筋を組み立てる職人が思うように集められない期間があった。それをなんとか凌いだものの、七里ヶ浜高校を担当していた西岡君はそぞ苦しかったことだろうと思う。これがまとまった大きな仕事を受けた最初であった。
 また現・社長が受注してきたフラワーセンターの温室の工事も西岡君が手掛け、清興の技術だけで苦心しながらやり遂げた。それぞれの工事が完成した経過を振り返ると、手がけた建物には社員の大変な苦労が染み付いているのだと思う。
 公共工事やビルなどの大工事を請け負う機会が増え、営業規模が大きくなれば社屋もそれなりの立派なものが欲しくなる。好行の提案で土地を捜すうちに、縁あって矢嶋さんの土地を買い取ることができ、待望の本社ビル工事が完成した。昭和五十五年のことである。社員たちの地道な努力の賜だと思うと、私には白いビルがまぶしいほどに見えた。

 私の性格からか清興建設の経営は地味だったかもしれないが、堅実にやってきたと自負する気持ちもある。しかし建築業は社会情勢に大変左右されやすい業種だから、受注が減ってどうにも仕方のないこともあった。特に昭和四十八年の第一次石油ショックの頃は深刻だった。中東戦争による石油不安から消費者が買いだめに走り、企業の売り惜しみ買い占めがそこに拍車をかけて、資材の価値が暴騰した、少し年配の方ならこの時のことをよく覚えておられるだろう。翌年になって物不足によるパニックは収まったが、景気は後退して物価高だけがそのまま残った。
 会社はそれ以前に組織を三分割して独立会社としていた。後にはまた三つを統合してしまったのだが、当時は建築部門を私が持ち、設計は喜多川、不動産は長男の好行が担当していた。ところがこの石油ショックで不動産部門がひどく落ち込んでしまった。そういう中でこんな話が持ち上がってきた。
 私の家の隣に阿部さんという方の六百坪の土地があった。ここが住友不動産から売りに出された。坪二十五万から三十万していたから一億五千万以上の価格である。この話を聞いた好行が、知り合いの富士銀行の支店長に相談したら、一億以上というのは今は無理だが二、三千万ならとりあえず貸すという。そこで好行はこの土地を買い取ろうと決めて、住友不動産の部長のところに私も同行して交渉に行った。すると
 「石渡さん、うちは今あそこは売れないですよ。でももしやってくれるなら全部任せるから、おたくで分譲して売ってくれませんかね」
 という話である。だから金はいらないという、つまり何区画かに分けて私のところで分譲住宅として売り出す。一区画売れたら買い主が住友から分筆して登記をし、同時にうちに金を払う。その中からうちは土地代金を住友に払う。そうすると住友は安全に土地が売れて、うちも土地の購入資金や利子負担がいらなくなる。
 不動産の売買がぴたりと止まっていた時期にもかかわらず、土地が良い上に価格が安いので一年ほどですべて売り切ってしまった。その後になってから不動産の景気が少しずつ上向いてきたが、そういう一番苦しい時期に、いい話が持ち上がって不動産会社が儲かった。なんという幸運だろうと思った。しかし好行が前向きにやっていこうとした姿勢が、そのまま生きたのかもしれない。
 もう一つこんな話がある。これは私が社長を退いた年だったが、大町に骨董品店を開いたばかりの人がいた。ぶらっと立ち寄って四方山話をするうちに、岩瀬の西念寺で本堂と客殿を新築しようとしているという話題になった。何億円もかかることだから檀家も寄付をしているが、なかなか資金も集まらず計画はまだ本格化していないという。耳よりな話を聞いたと思い、私は会社に受注できるか当たってみたらどうだろうと話した。こういう情報というのが仕事をもらう上で非常に大事なのだ。結局営業の橋本君と好行が一年がかりで大変な苦労をして、うちでやらせてもらうことができたのである。
 こんなちょっとしたことで楽になったり困ったことになったりするのが、建築業の面白いといえば面白いところだろう。ただ私はうまくいった話しばかりをちょっとしすぎたかもしれない。大きな資金がいっぺんに動く仕事だから、本当は資金繰りのことなどで頭を悩ませていることも多かった。毎月毎月多額の手形を切る。どこかに滞りが起きて、うちに金がうまく入らなかったら手形が落ちない。もし入らなかったら社員はどうなる、その家族はどうなると考えだしたら、もう安閑と寝てはいられない。寝てはいられないと思っても、朝になって気がつけば、ちゃんとぐっすり寝ている。慣れというのは怖いものだ。
 しかし慣れだけでは実際の厳しい現実は乗り切れない。特にこの商売は平均した実績を維持するのが難しい。景気による浮き沈みが激し過ぎるという意味では、業種としてもっとも悪い方だろうと思う。けれど私はもしかしたらこの業種に適していたのかもしれないと考えたりもする。「人事を尽くして天命を待つ」、大袈裟にいえばそんな胆が、いつのまにか座ってしまったのだろう。

「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行 
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社