子守歌

 「一の谷の 軍(いくさ)破れ
 討たれし平家の公達(きんだち)あわれ
 暁寒き 須磨の嵐に
 聞こえしはこれか 青葉の笛・・・」(『青葉の笛』尋常小学校唱歌)
 
 低くゆっくり口づさむ声が続いている。目がとろとろと重くなり、添い寝している母の体温に抱かれて、いつしか眠りに落ちていく。兄弟のなかった私はいつも母を独り占めできた。うんと幼い時、子守歌を聞きながら寝付いた思い出が今も残っている。
 母の名は登世といって、明治八年生まれの父よりも、一つ年上だった。実家の古川氏はもと長岡藩士である。士族の出のせか負けん気が強くて躾の厳しい面もあったが、私に対する扱いは大変温かく大切に育ててくれた。痩せて顔の小さい人で、一メートル五十七、八あったから、その時代にしては背のすらっと高い方だったろう。どのようないきさつで父のもとに嫁いだか今となってはわからないけれど、何にたいしてもいい加減なところのないキリッとした性格だった。
 母の十八番はたいていが小学唱歌だったが、その中にはずいぶん勇ましい歌もあった。
 「轟く砲音(つつおと) 飛び来る弾丸 荒海洗うデッキの上に 闇を貫く中佐の叫び 杉野は何処(いずこ) 杉野は居ずや・・・」。大正元年に作られて広く少年たちに愛唱された『広瀬中佐』という尋常小学校唱歌である。軍神として崇められていた広瀬中佐の歌を私どもの年代で知らない人はきっといないだろう。こんな勇ましい軍国主義の歌でも母が静かに歌っていると、やっぱり私の瞼は重くなった。しかしその時、母はどんなことを思っていたのだろうか。『青葉の笛』はこう続く。「更くる夜半に 門を敲(たた)き わが師に托せし言の葉あわれ・・・」。
 
 夏を過ぎた鎌倉は本当に寂しかった。別荘の人々はとうに引き揚げて周りの人家は空き家になるところが多く、海水浴客のざわめきもすっかり消えてしまう。自分の家だけがポツンと建っているような心細さだが、そのかわり自然のたたずまいが急にくっきりしてくる。稲瀬川沿いには松林が多く、家の前から麦畑が広がって人家がその中に点在している。水辺にやってくる鬼ヤンマの大きさといったら恐ろしいほどだった。
 夕方になると赤トンボがやってくる。稲瀬川の上にはものすごい数の赤トンボが群れをなして飛ぶ。動きはすばしっこいが帽子を一振りすれば何匹も撮れるというような、今からは想像もつかない数だった。空が西の方から真っ赤に染まる。その夕焼けの中を赤トンボが乱れ飛ぶ。その光景が今も脳裏にはっきりと蘇ってくる。
 
 おふくろに手を引かれて夕方、稲瀬川の辺りを歩くこともあった。鎌倉はそのころ、雁の渡りが見えた。「竿になり、鉤(かぎ)になり・・・」という歌の文句どおり夕焼けの空に隊列を変えながら雁行していく遠い群れは、文学などでは風情のあるもののような書かれたりするが、子供の私にとっては寂しさや心細さで胸が締め付けられるような情景だった。手をつないでいるくらいでは耐えきれなくなって、たいてい帰りはおふくろの背におぶさってくる。
 親父は酒を飲んで家になかなか帰って来ないことがあった。もちろん付き合いということもあるが、やはり酒が好きだったのだろう。夜遅くなる時は一時、二時、しかし帰ってくればよし、そのまま帰らずに次の日の夜八時、九時まで、丸一日家を空けることもしばしばだった。記憶がはっきりはしないが、川べりに散歩に行ったおふくろはひょっとして父を迎えに出るつもりもあったのかもしれない。
 夜、私が迎えに行かされることもあった。「どこそこの料理屋に行って見てきてごらん」とおふくろに言われ、出かけて行っても「知らないよ」とそっけなく言われてしまえばそれっきりで、他に当たってみる才覚など子供にあるはずがない。真っ暗になった帰り道、家の近くは空き地が多く、人家といえば人気のなくなった別荘ばかりだ。近くの小さな池に夕方からやってくる白鷺の鳴く声が突然響いて、飛び上がるほどびっくりする。ぎゃっ、ぎゃっという赤ん坊の声に似た実に嫌な声だった。
 時折、飲んできた親父とおふくろとの間に喧嘩が始まる。
 「いったいどこをほっつき歩いていたんですか」
 「どこだっていいだろう。男には付き合いってものがあるんだ」
襖の向こうから言い争う声が聞こえる。そうなると布団の中にいても眠っていられない。二人は私が寝付いたと思ってけんかしているが、たとえ眠っていても敏感に目が覚めてしまう。山の方で鳴くフクロウのホーホーという声が聞こえる。するとますます私は値付けなくなる。長谷の山の際あたりで最近、人魂が出たとみんなが噂していたことを思い出したりする。
 こうして親父の帰りがたびたび遅くなるような時期は学校にいても心配だった。「親父はいったいいつ帰ってくるんだろう」と思う。「帰ったら帰ったで、また喧嘩だな」とも思う。その不安定な気持ちはおふくろも同じだったろう。子守歌を私に聞かせながらもあれこれ考え事をして、「更来る夜半に 門を敲き・・・」と子守歌を歌いながら、親父が帰ってくるのをじっと待っていたのではないだろうか。
 こうして書いてくると、いかにも親父とおふくろの仲が悪くて暗い家庭だったように見えるかもしれないが、けっして二人はいがみ合ってばかりいたわけではなかった。親父が早く帰った寄るは私を中にはさみ、「川」の時になって三人で浪の音を聞きながら休む。微妙な浪音の違いで、親父は翌日の天候をぴたりと当ててみせた。詩吟が得意だったので『爾霊山』『川中島』などを低い声で吟じたりもしていた。そんな温かい思い出もあるのだから、夫婦がしっくりと助け合って暮らしている面も無論あったのだ。きっと幼い心の中に一度植え付けられた不安が記憶の中で実際以上に大きく育ってしまったということがあるのだろう。
 ただ、私は親父の酒飲みという面をいやというほど見たと思ったから、あまり酒はやらないこといんしている。大工の棟梁は大きな品物を扱っているわけで、お得意さんにとっても家を建てるということは一生に一度の買い物かもしれない。大金を預かることもあるし、体の弱かった親父に変わって営業から何からを若いうちに任されていた私は、個人営業主の肩に掛かっている責任の重さをいつも肌でひしひしと感じてきた。酒に酔って万が一のことがあってはならない、そう自分に言い聞かせてきた。一人息子の私を大変に可愛がってくれたし、職業人としての生き方の手本でもあった親父だが、酒の点では反面教師だったともいえるかもしれない。

※「青葉の笛」
https://www.youtube.com/watch?v=8UShL2FwUNM

※広瀬中佐
https://www.youtube.com/watch?v=YG2e7tmZFnk&t=48s

※爾霊山
https://www.youtube.com/watch?v=Bp6weGBLF1w

※川中島
https://www.youtube.com/watch?v=olguD6WJ3Qc

「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行 
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社