たった一人の万歳

 会社がうまくいった話をたくさんしたのだから、ついでに私の社長業の自慢話も書いておこうかと思う。
 ある銀行から仕事を紹介されたことがあった。他の会社がビルの本体を建てたところでなんとか残りをうちでやってくれないかということだった。銀行が仲介しているのだから資金面の心配は一切ないにしても、その時もしかしたら危ない仕事だったかもしれないという気持ちがどうしても拭えなかった。ともかく見積もりもして工事も完了した。そうしたら案の定すっかり仕上げた後で、建て主からクレームがついた。仕事のこういうところが悪いとさんざんな言われようである。
 私はもしかしたらこういうこともあろうかと思っていたので、契約書の中に「躯体の欠陥については責任を負わない」というわずかな言葉の一項をいれておいた。「躯体」というのは建物の本体のことである。ところが建て主からついたクレームはみんな余所の会社が建てた躯体が原因で起きている問題だった。そこへ銀行と建て主との間に入った弁護士がやってきて、金を払えと言いだした。私が
 「トラブルが起きているのはみんな躯体が原因になっているんですよ。これは躯体を調べてもらわなくちゃなりません。弁護士さん、見て下さい、契約書にはこういう一項が入っているんですから」
 そう言って、契約書を示すと弁護士はただ
 「はい、よくわかりました」
 とだけ言って、すぐ帰ってくれた。私は「よかった!」と心の中で喚声をあげた。マラソンで銅メダルを取った有森裕子選手ではないが、「自分を褒めたい」というのはあんな気持ちだろうと思う。私が事前に手を打っておいたことが功を奏したのである。私の性格として、仕事内容についてはいつも慎重にやってきたつもりだ。会社が技術力を発揮する前にこういう契約のことでつまづかないよう、充分に目配りをしておくのが私の役目でもある。事前に周到な措置をとり、しかもそれが表面に出ないで何事もなく済む。それが一番いいことである。社長の仕事があんまり目立つようではいけない。だからこの時はたった一人で万歳をしたのである。

 会社という組織で仕事を受けるようになると、個人営業の時と違ってお得意さん個人の人柄に触れる機会は少なくなってしまう。けれど仕事をいただいたことで、私なりの感想を持ったりすることは多い。
 もう三十年も前のことになるが、昭和四十二年に清興建設は鎌倉彫会館の建築工事を請け負った。鎌倉彫で著名な方たちが集まって、伝統工芸の発展のために後継者を育成する拠点を作ろうとされたのである。鎌倉彫協会会長だった後藤俊太郎先生をはじめ木内晴岳先生、寸松堂の佐藤泰岳先生、伊志良不説先生など多くの方が、会館を建てるために苦労された。
 建築を請け負った業者として、私は協同組合や協会の話し合いや説明会の場に何度も同席した。様々な流派や業者の人が集まるのだから議論は百出する。そういう様子を目の当たりにして私は感動した。鎌倉彫というこの土地独自の伝統と地場産業を、派閥を乗り越えて守り、盛んにしていこうとする姿勢に心を打たれたのである。その姿には私欲を越えたものがあった。自分のところは自分だけでやっていくと言って大きな目的のために集まらなかったら、それぞれの業績も小さなもので終わってしまう。他の仕事の場合でもこんな風にいろいろな組織が大同団結できたらどんなにすばらしいことだろう。
 今、鎌倉彫はずいぶん盛んに行われている。パリで展覧会が開かれたという話も聞いたことがあるし、アマチュアの鎌倉彫人口もますます増えているらしい。それはみんなあの時にそういう基礎が作られたからだと思っている。
 ところが、経営について考えさせられたこともある。
 大きな会社の出張所を建てた時のこと、ちょうど高度成長期に入っていた頃だろうか。一つの出張所を作る時は準備の社員が入って、できあがりと同時に所員、所長が配属になる。その時点ですでに売り上げのノルマが決められているのである。年間のノルマが達成できなければ、所長なり支店長なりはすぐ飛ばされてしまう。また我々がその会社に行った時でも、個人の営業成績がどんと貼りだしてあるから、あの人の成績はこうだと一目でわかってしまう。それは厳しい競争である。しかし、そうした姿を目の当たりにしたことは自分にとってもよい勉強になった。
 競争社会の現実では、企業はいつも少しずつでも拡大していかないとやっていけないようになっている。会社を大きくするのか、あるいは方向を転換していくのか。結果としての私の場合は、バブル的な成長よりも安定した誠実着実な仕事ぶりを選んだことになる。もっともこれは弱者の弁で、もっと強い人はこんなことは言わないだろう。あくまでも私の弁でであるから、本当はやるべきことはもっと多かったのかもしれない。ただ社員は何十年もずっと勤めてくれた方が多いし、安定した経営を継続できたというところに価値があったと私は思いたいのである。
 バブルの崩壊後はどこも競争が激しくて皆大変な思いをしている。うちでも今の会社を維持するのに現・社長はなかなか苦心しているようだ。だから転換ということを模索して、居住性の高い木造の新しい家の工法を独創し、仕事の中心をそこにもっていったのだろう。その「J工法・鎌倉の家」がうまくいって、経営に大変効いてきているのは方向性として本当によかったと思っている。

「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行 
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社