甦る少年の日の思い出

◇松林と砂浜

 海岸に沿って道路ができる前は、稲瀬川から滑川にかけて二十メートル位の高さがある高大な幅の砂浜が相模湾に向かって流れ込むような形でありました。六十年前ですが、道路を造るためこの砂山を取り除いたところ、何千体とも言われる軍装した首なし武者の遺体が出てきました、今より七百年前の一三三三年に稲村ヶ崎から干潮を利用して鎌倉に侵入した新田義貞の軍勢三万が、執権北条高時の軍勢七千と稲瀬川河口で激突しました。新田義貞の軍勢は勝ちに乗じ長谷の甘縄神社の境内まで乱入したといわれています。北条高時軍は敗れ、新田軍が武者の死体をまとめて葬った跡と考えられています。
 私が子供の頃は現在シーサイドテニス倶楽部になっていた辺りは小高い砂丘で、子供達の格好の遊び場でした。砂丘の向こうにうっそうとした松林に囲まれた海浜ホテルがありました。松林の中には月見草もいっぱい咲いていました。今では想像もできませんが、私の長谷の家の前の道沿いも海岸まで松の並木がありました。今でも当時の松の木が何本か残っています。当時の海浜ホテルは大きなガラス窓に囲まれたモダンなヨーロッパ風の瀟洒な建物でした。ホテルの様子がどうしても知りたくて、ある晩一人でホテルの前の砂山を越えてみると、芝生の庭の先に灯りに照らしだされた別天地のような美しいホテルがありました。バンドの演奏をする音も聞こえてきます。しかし驚いたのは、中で着飾った半裸のような格好をした女性(今で言うイブニングドレスだと思いますが)が男性と踊っている光景でした。私には無縁の想像できない様な世界が砂山の向こうの松林の中に広がっていたのです。私は茫然として時の過ぎるのも忘れてそこに立ちつくしていました。勿論、別荘族でない地元の子は誰もホテルの中に入ったことなどありません。
 由比ガ浜の砂山については、歌人吉井勇の和歌(うた)に次の様なものがあります。吉井勇が想いを起こしたのは、鎌倉時代にこの地で討ち死にした武士ではなく、その当時想いを寄せた一人の女(ひと)かもしれませんが、由比ガ浜の砂山が歌人の吉井勇の心に深い感動を与えたことは間違いありません。

 「運命が丘となづけて往きたる 砂山いかに鎌倉の夏」

 今でも、私にとっては、由比ガ浜の砂山と松林は過ぎし日の大きな思い出です。

「夢また夢の思いで草」
2014年6月20日第一刷発行 
著者 石渡弘雄
発行所 石井印刷株式会社