甦る少年の日の思い出
◇関東大震災 【後編】
江ノ電は明治三十四年に藤沢と江ノ島を結ぶ電車として開業しましたが、鎌倉まで延長されたのはずっと後のことで私が生まれる一年前の明治四十三年(一九一〇年)です。極楽寺隧道を人力だけで完成(一九○七年)させることは容易ではなかったようです。当時、長谷の稲瀬川周辺一帯はかなえいの低地になっていました。私の家のまん前にあった当時の由比ガ浜停車場(現在の由比ヶ浜駅と長谷駅の間に在って現在の長谷駅から百五十メートル程しか離れていなかった。現在の由比ガ浜駅は、当時は海岸通り停車場と呼ばれていた)から長谷停車場方面に向かって土地が低くなり相当の高低差がありました。この土地の高低差を解消して線路を敷設するため、当時の由比ヶ浜駅から長谷駅近くまで、七〜八メートル程土盛りをして周りをコンクリートの擁壁で固め、その上に線路を敷設していたのです。これが防波堤の役割を果たし、ここで津波はピタリと止まりました。江ノ電の線路がなければ、我が家も津波に飲まれていたのかもしれません。万葉集で「鎌倉の美奈之瀬川に潮満なむか」と詠まれたように稲瀬川(美奈瀬能瀬川または美奈之瀬川)は、万葉集で詠われた頃の時代は水量も豊富で渡るのも大変だった川幅も広い川だったと思われます。私の子供の頃でも私の家の周りから現在の由比ガ浜駅に向かって土地が一段高くなっていくので海に向かって左側は稲瀬川堤と呼ばれ、逆に長谷方面に行くには可なり下に降りて行かなければなりませんでした。従って津波の被害は江ノ電沿線の擁壁で食い止められたのです。しかし、稲瀬川から入った津波は長谷の大谷戸や佐助の辺りまで達したと言われています。
当時の稲瀬川は長谷駅の近くを流れる川と、私の家近くを流れる川の二本の川に分かれていてその間の土地が河原のように低くなっていました。奈良時代に詠われた当時の川幅の広い稲瀬川(美奈乃瀬川)はなくなってしまい、震災時には川岸の両岸だけが川筋として残っていたのではないでしょうか。従って、当時の由比ガ浜停車場と長谷停車場の間の土地は、低地だったので、津波の被害が鎌倉でもとりわけ大きかった訳です。過去何千年の間には鎌倉でも津波による被害はあったと思いますが、人々の記憶はすぐに薄れてしまい、震災時にはこの低地にも多くの家が建てられていました。関東大震災の後、当時進行中だった極楽寺切通の開通のために取り崩した土砂をこの地域の地主だった村田さんが持ってきて土盛りしたので、現在では極端な高低差はなくなりました。それでも、現在の由比ヶ浜駅と長谷駅の高低差は四〜五メートルはあるのではないでしょうか。
「長谷の大仏はお堂の中に鎮座していたが関東大震災の津波でお堂が流されてしまい現在の様な外に鎮座する姿になってしまった」、という話を聞いたりしますが、これは根拠のない誤った話です。
昔から今日まで関東地方で起きた大きな地震を調べてみると次のようなものがあります。
一一二四年(仁和二年)・・・鎌倉地震
一四三二年・・・・・ 永享相模大地震
一五二二年・・・ 大永相模大地震
一七〇三年・・・ 江戸元禄大地震
一九二三年・・・ 関東大震災
昔ある会合でお会いした東京大学理学部の鎌倉地震研究所の所長もされたいたことがある地震学の権威である小平先生のお話では、現代の科学でも地震発生の予知はできない。しかし、日本の歴史千五百年を見てみると、地震のマグマが蓄積し何百年単位でそれを繰り返す一つのサイクルがあるとのこと。過去の地震を教訓にして将来起きるかも知れない地震に備えることを忘れてはならないのです。
「夢また夢の思いで草」
2014年6月20日第一刷発行
著者 石渡弘雄
発行所 石井印刷株式会社