甦る少年の日の思い出

◇三井高昶さん

 小学生の頃の友達で思い出すのは、三井高昶さんです。戦後の財閥解体命令で解体された十一あった三井家の分家の当主だった方です。三井家は本家の八郎衛門さん以外の方は皆さん名前に高が付き、三井さんも「タカアキラ」と名前に高がついていました。勿論、小学生は棋様な難しい名前を読めません。小学校四年の時、三井さんが東京より転校してきました。偶然私と同じクラスになりました。三井さんは胸を張ったような横柄な大きな態度、そして当時としては珍しいピカピカの金ボタンが付いた洋服姿でした。当時のクラスの級友六十名程のうち和服に袴をつけた子が十人位で、あとは和服の着流しでしたから、クラスの子供にとっても驚きです。当然最初の印象は余り良いものではありませんでした。しかし勉強は良く出来ました。
 三井さんは、正確な理由は分かりませんが、多分病気療養のため東京の両親と離れて材木座の別荘に住んでいました。学校近くに別に家を借りて女中を一人置いて昼食はそこで済ませ、再び登校するようなことをしていました。それから半年ほど経ったある日、東京の学習院へ戻って行きました。そして長い空白の四十年が経ったある日、突然私に三井さんから連絡があり、鎌倉で再会しました。その時の三井さんは既に中年の紳士でした。目は物静かで、細身の体、物腰は柔らかく、小学生の時の印象とは暫く結びつかず、戸惑うほどでした。しかし、話をしているうちに、懐かしさと親しさが湧いてきて、昔の三井さんに戻って行きました。
 三井さんは学習院から京都大学を出られた戦前の三井財閥の御曹司で、実に多趣味の方でした。結婚は親の反対を押し切り一時は逃避までして結婚したそうです。しかし戦後は、財閥解体の結果裸一貫になってしまいましたが、悠々自適の生活をされ自分流の見事な生き方をされていました。三井さんの再三の誘いもあり創設から間もない鎌倉ロータリークラブに入会させて頂きました。四十七年に及ぶロータリアンとしての経験はその後の私の人生を有意義なものにしてくれました。三井さんとの再会がなければ、ロータリークラブに入っていなかったかもしれません。
 話はちょっとそれますが、当時国鉄鎌倉駅西口前の四階建ての駒ビルの屋上にあったナショナルの大看板の話です。丁度その当時鎌倉ロータリークラブの会長をしておりました私に松下電器本社より電話がありました。「実は鎌倉ロータリークラブの相川さんと名乗る方より駒ビル屋上にあるナショナルの大看板が景観上好ましくないので撤去して欲しい旨の電話があったのですが」と、問い合わせてきました。相川さんは同クラブの長老の方です。「私は相川さんより直接お話しは伺っておりませんが、その件につきましては、相川さんのみならず多くの鎌倉市民の方は、出来れば撤去して欲しいと思っています。私からも宜しくお願いしたい」と伝えました。後日、松下電器本社の社長秘書より嬉しい電話がありました。「この度御要望があった駒ビル屋上の弊社看板を撤去致します。併せて鎌倉市内にあるナショナルの広告看板も全て無条件で撤去します」とのこと。早速全ての看板が撤去されました。この件については、三井さんも学習院時代から旧知の仲の松下電器社長の松下正治(松下幸之助氏の娘婿)さんに口添えをして頂いたということを後日聞きました。相川さんが鎌倉の環境美化に功績があったことは言うまでもありませんが、何よりも松下電器が会社の宣伝よりも社会の為に迅速な決断をしてくれた態度は見事でした。
 わが友三井さんはアッと言う間に天国に旅立ってしまいました。私とは不思議な縁で子供の頃からの繋がりです。哀惜に堪えません。

参考URL
http://easthall.blog.jp/archives/16127313.html

「夢また夢の思いで草」
2014年6月20日第一刷発行 
著者 石渡弘雄
発行所 石井印刷株式会社