甦る少年の日の思い出
◇谷崎潤一郎と映画
小学生時代の思い出でなぜか鮮やかに覚えている情景に、映画の撮影現場があります。鎌倉の夏も終わり再び静けさが戻ってきた大正九年(一九二○年)の八月の終わりのある日の午後、海岸に遊びに行った時のことでした。滑川と稲瀬川の間にある高さ二十メートル位の海浜ホテル前の砂山の下で普段見たことのない大勢の人達が何かしているのに気がつき、近くに行ってみると、当時としては珍しい映画のロケ隊でした。ロケ隊は総勢二十人くらいで既に撮影機がカラカラと音をたててまわっていて、当時としては珍しい派手な海水着の美しい女優と若いハンサムな男優との会話のやり取りが始まっていました。時折、監督らしき人が撮影機を止めて二人と打合せ、また開始です。その当時映画は子供にとっても大変な娯楽でしたが、その撮影現場に自分がいることに興奮し、我を忘れるほどでした。
一群の中に麦わら帽子を阿弥陀にかぶって撮影をジッと見つめている人物がおり、子供心にも何か威厳を感じました。撮影はなかなか終わりそうもないので、母から頼まれた用事を思い出し私はその場を立ち去りました。
時は流れそれから四十年以上経ったある日偶然に雑誌「太陽」に載っていた写真を見て驚きました。私が立ち合ったロケ隊の由比ガ浜海岸の写真です。写真の説明から、私が見た人達がはっきり判りました。脚本及び総監督は後に大作家となる谷崎潤一郎(カメラ脚立の右側の麦わら帽子の人)、監督はアメリカ帰りの栗原トーマス、男優は高橋英一(後の岡田時彦)、美しき女優は後の谷崎の私小説の主人公と言われた葉山三千子(谷崎の義妹のせい子)、映画の題名は「アマチュア倶楽部」ということが判ったのです。その後、「アマチュア倶楽部」についてさらに調べてみると色々と面白いことが分かりました・
谷崎潤一郎の映画と聞くと市川崑監督の「細雪」や山口百恵主演の「春琴抄」を思い浮かべるかもしれませんが、これらは谷崎が亡くなってから作られた映画で、彼が自ら作った映画ではありません。谷崎が映画界に新風を送るべく自ら制作した正真正銘の谷崎映画と呼ばれるものは四本しかありませんが、その第一作が鎌倉由比ガ浜を舞台にした「アマチュア倶楽部」だったのです。後の文豪谷崎が三十四歳の時の話です。映画会社はその年の四月に創設されたばかりの大正活動映画株式会社(略称、「大活」)です。
ストーリーは、鎌倉由比ガ浜の海水浴場とそれに隣接する別荘地帯を舞台とするコメディ映画です。「アマチュア倶楽部」のメンバーである村岡繁とその友人たちが浜辺で遊んでいるうちに、海で泳いでいる三浦千鶴子と知り合う。二人組の泥棒が休憩所に入り込み、千鶴子の着物を盗みだしたため、千鶴子は水着のまま家に帰ってしまう。泥棒はその後、鎧などの家宝を土用干ししている最中の三浦家の別荘にも忍び込むが、なぎなたを振り回す千鶴子の思わぬ反撃にあい退散する。一方、その夜、村岡家の別荘ではアマチュア倶楽部の面々が村岡家当主の留守を狙って歌舞伎の公演を始めていたが、予定外にも父が来て激怒し、メンバーは外に逃げ出す。ここから始まる千鶴子、村岡繁とその友人たち、泥棒の三者が入り乱れた一見するとドタバタ喜劇のようなストーリーが展開するのですが、谷崎の考えていたことは、当時アメリカハリウッドで人気のあった喜劇役者バスターキートンの映画のような開放的雰囲気が漂うテンポ良い映画を目指していたと言われています。谷崎は日本映画界に活力を与える一石を投じることを考えていたのかもしれません。
後年長谷の植木屋の惣さんから聞いた話ですが、谷崎潤一郎は、由比ガ浜で撮影をしたその年の夏は長谷に別荘を借りて葉山三千子と共に住んでいたそうです。七里ヶ浜のパブロバ姉妹(パヴロワ)ともしばしば交流があったようです。特に葉山三千子が後年の谷崎の小説に深く影響を与えたことを思うと谷崎研究の視点からも中々興味深い話です。
参考URL
葉山三千子
https://ja.wikipedia.org/wiki/葉山三千子
エリアナ・パヴロワ
https://ja.wikipedia.org/wiki/エリアナ・パヴロワ
「夢また夢の思いで草」
2014年6月20日第一刷発行
著者 石渡弘雄
発行所 石井印刷株式会社