万葉集の時代の鎌倉

 今から約千二百年前の七世紀後半から八世紀後半にかけて、大友家持らにより編纂されたとされている万葉集には、全国から集められ選ばれた四千五百首余りの歌が載せられています。実際はもっと多くの歌が集まったと言われていますが、言語の稚拙なものや、どう見ても、内容のお粗末なものは、編者によりはねられたと思われるので、万葉集に載せられた歌は、絞りに絞られたものと言えましょうか。万葉集が編纂された奈良時代には、「ひらがな」も「カタカナ」もなかったので、万葉の歌は全て漢字(万葉かな)で表記されていました。漢字の音や訓を用いて言葉を表そうとしたいわば「あて字」です。したがって、後の時代に筆写していく過程で間違えたり、別の字を当てたりすることもあり、写本では言葉は同じでも、当てる漢字が異なるものもあります。後の古今集等の下に比べると、内容も飾らない詠み手の気持ちを素直に表現したものが数多くあります。代表的なものが相聞歌です。男女の間で歌を通じて消息を問い交わる恋歌です。万葉集は世界に誇る日本最古の歌日記と言われています。相聞歌には歌で若き男女が恋のやりとりをすると言う素晴らしいロマンもあります。また、徴収された防人の悲しみなど、庶民の気持ちを読んだものや、東国訛りも入ったものなども数多くあり、そのバラエティーの広さには驚かされます。その万葉集の中に、鎌倉を故地としたものが三首、鎌倉出身の防人の歌一首が入っていることに興味が惹かれます。

万葉集に出てくる鎌倉を故地とした相聞歌には、次の三首があります。

一、見越しの崎 (作者不詳)

鎌倉の見越(みこし)の崎の岩崩(いわくえ)の
君が悔ゆべき心は持たじ

万葉集の原文は、次のような漢字表記です。

可麻久良乃 美胡之能佐吉能 伊波久叡乃 伎美我久由倍岐 己許呂波母多自

 貴方は見越の崎(恋人である私)が岩崩(心変わり)するかもしれないと心配するかもしれまませんが、私にはあなたを振って悔やませるような気持ちはありません。貴方のことをいつも愛していますよと言う気持ちを擬人法で詠った現代人もビュクリするような洒落た歌です。歌中の見越しの崎は稲村ヶ崎と言われていますが、「見越しの崎」でなく「見越しの先」と解釈すれば私は美しい相模湾を望む今の源氏山から長谷、大仏、光則寺、長谷寺、極楽寺を取り囲む一連の山並みを意味しているのではないかと思っています。個人的な推測ですが、万葉の時代の鎌倉も何千年前から地震に襲われたことが度々あると思われます。その頃発生した地震の影響で、鎌倉の山も崩れたことを間近に見た読み手がこれを歌に読み込んだと言うことも考えられます。

二、美奈之瀬川(作者不詳)

ま愛(かな)しみ、さ寝に我は行く
鎌倉の美奈之瀬川に潮満つなむか

原文は次の通りです。
麻可奈思美 佐祢尒和波由久 可麻久良能 美奈能瀬河伯尒 思保美都奈武賀

 恋している娘のところで、夜を共にしたいが、美奈瀬 川が満潮で渡れないのではないかないだろうかと心配する。恋する男と、それを待つ女の心情を率直に表した総門下です。
時代は鎌倉時代になりますが、八百年ほど前伊豆から雅子が頼朝も恋しや、と一途に鎌倉まで来たが、あいにく昨夜の大雨で川を渡ることができないと言う歌もあるほどです。昔は美奈之瀬川もかなり川幅がある。水量豊かな川で、周りには湿地が広がっていたのではないかと想像できます。これは私の推測ですが、美奈之瀬川の河口付近は今よりずっと低かったので満潮時には海の水がかなり河口深く入ってきたのではないかと思います。

3 鎌倉山薪(作者不詳)

薪(たきぎ)伐(こ)る、鎌倉山の、木(こ)垂(だ)る木を、松と汝(な)が言はば、恋(こ)ひつつやあらむ

原文は次の通りです。

 「鎌」を導き出すために、「薪」伐ると言う枕詞を使ったり、「松」の木と「待つ」を掛け「たり、なかなか面白い歌です。この歌の詠み手は女性で、鎌倉山の松(待)の木のように、貴方が待てと言うならば、待ち(松)ちますが、本当に貴方の心変わりはないのですね。私は貴方のことを心から愛しているのですよと、可愛い女性の思いを率直に詠んだ歌です。また、薪を切るかまと言う名を持つ鎌倉山、そこに生い、茂る木々を貴方が松(待つ}と言ってくれたならば、こんなにも恋にもらえることもないのにと言う解釈もあるようです。またこの歌で読まれている鎌倉山は、現在の鎌倉山を指すものではなく、鎌倉の山一般を指すものと思われます。

4 防人の和歌 (鎌倉群の上下、丸子連多磨}

難波津に装ひ装ひて今日の日や、
出でて罷(まか)らむ見る母なしに

 難波の港から今日か明日かと出る予定をしているが、いつ船は出るのだろうか。見送ってくれる母もいないのに、と言う先人の心情、素直に吐露しています。作者の丸子連多麻(まるこのむらじおほまろ)は、上下(@かみつよぼろ」と読むという公職にある鎌倉出身の役人が、北九州防備のために徴集され、家族からも、引き離され生きて帰れる保証もないまま、辺境の地に向かう途中の難波で、その切ない心情を歌ったものと思われます。

 万葉集から分かる事は、鎌倉は奈良時代にも登場する古い歴史ある土地で、房総や東国へ通じる東海道の要所として、その頃から既に多くの人が住んでいたということです。地名の由来は、鎌で切ったような深い谷を表す「倉」から名付けられたとも言われています。ただ「鎌倉」と言う地名の由来は諸説ありますが、現在の「鎌倉」という漢字が確定したのは、ずっと後の時代で、それまでは「可麻久良」等のいわゆ「万葉かな」のような表し方しかなかったと思います。

稲村ケ崎公園

「夢また夢の思いで草」
2014年6月20日第一刷発行 
著者 石渡弘雄
発行所 石井印刷株式会社