甦る少年の日の思い出
◇関東大震災 【前編】
大正十二年(一九二三年)九月一日午前十一時五十八分、鎌倉の海岸から約八十キロメートル沖の相模湾を震源とする関東大震災が起きました。
鎌倉震災誌(昭和六年鎌倉町役場刊)によれば、鎌倉町の被害は、全半壊三千戸、埋没八戸、津波による流失百十三戸、焼失四百四十戸、合計三千五百七十戸に達しました。又、死者四百十二名、重症者三百四十一名の人的被害も出ました。震災の三年前の一九二〇年(大正九年)に実施された国勢調査によると、当時の鎌倉の人口は二万九千六百二十一人、五千八百五十七世帯ですから、いかに大きな災害であったか想像できると思います。当時は大船、玉縄、深沢、腰越は未だそれぞれ村で、鎌倉町の被害数字には含まれていません。全半壊は大船方面(小坂村、玉縄村)で四百八十戸腰越津村で三百十戸、深沢村では詳細不明と近辺の村でも大きな被害があったことが分かります。特に当時の建物は、木造瓦葺きで、耐震性は全く考えられていなかったことも被害を大きくした一因と思います。
賑やかな鎌倉の夏も終わり、その日は二学期の始業式でした。朝からの雨も止み、学校の校庭で相沢校長の訓話を聞いた後帰宅しました。私は両親と三人で昼ご飯を食べていました。その時、午前十一時五十八分、突然地面からゴーという音とともに一気に突き上げて来るような強烈な揺れが襲って来ました。横揺れというより、縦揺れです。立ち上がって外に逃げ出すような余裕はありません。まして炊事の火を消してから逃げ出すような余裕は全くありませんでした。幸い我が家では食事の支度を既に終え、火を使っていなかったことは幸いでした。丁度食事の支度で、多くの家で火を使っていたことも重なり、火災も多く発生しました。地震や津波による被害が大きかったことは間違いありませんが、地震によって引き起こされた火事による家屋の焼失も多かったのではないでしょうか。
とりあえず地震が納まったと思うと直ぐに第二震がやってきました。その後、「津波が来るぞ〜」とバタバタと走りながら叫んでいく人の声を聞き、私は母に背中を押され、逃げることにしました。父は家の前の別荘に滞在していた松平さんの家族の方が生憎海岸の方に出かけていたので心配だから探しに行くとすぐ出かけてしまい、母は松平さんの別荘の婆やさんが一人で残されていたので、連れ出さないといけないからと、とりあえず私に先に神明様(長谷甘縄神社)に逃げるように言いました。長谷通りに出てみると、殆どの店は、道路側に倒壊して道をふさいでいました。既に三橋旅館の在る長谷四つ角付近で火災も発生していました。大勢の人達が神明様に避難しようとしていました。荷物を大八車で運んだり背負って来る人もいて神社周辺は阿鼻叫喚の大混乱で立錐(りっすい)の余地もないくらいです。神明様の前から現在は保存建物になっている旧諸戸邸辺りまでが広場になっていたのでそこに皆が避難して来たのです。
半鐘がカーン、カーンと連打されていましたが直ぐに母親のことが心配になり家の方向に戻って行きました。家に着くと同時にものすごい轟音と共に破壊した家や倒木を巻き込んでまっ黒になった大波が江ノ電の線路まで来るのが見えました。「アッ」と思った瞬間、津波は江ノ電の線路の前でピタリと止まりました。幸いなことに、我が家は倒壊を免れ無事でしたが、山際にあった神社仏閣の多くは倒壊しました。私の通っていた第一小学校の校舎も全て潰れました。幸い学校の始業日で早く帰宅したために生徒は無事でした。海岸に松平さんの家族を探しに行った父は途中で津波が来たので由比ガ浜海岸の砂山の裏側に避難して無事でした。
山際は地盤が一様ではないことや耐震をまったく考えないで作られた思い屋根の建物なので被害が大きかったと思います。三百年以上も前の江戸時代元禄の頃にも鎌倉を襲った大地震や津波があったようですが、関東大震災が起きた当時は自然災害に対して備えるような防災意識は全くありませんでした。何十年を経るだけで、人は過去の災害を忘れてしまうようです。
「夢また夢の思いで草」
2014年6月20日第一刷発行
著者 石渡弘雄
発行所 石井印刷株式会社