夏の幻
「ヒロちゃん、あんまり朝はやくから伺うと失礼よ」
「大丈夫だよ、約束したもん」
玄関のガラス戸を勢いよく開けて外に飛び出すと、三メートルほどの道を隔てた向かいの屋敷の門のうちに走り込む。玄関の戸を開けて長い沓脱ぎのところから奥へ大声で呼びかける。
「ごきげんよう。お迎えに来ました」
「あら、随分早いのね。ちょっと待っててくださいね。若様、ヨッチャマ、お早くなさいませ。ヒロちゃんが来ました」
顔を出した女中が振り向く奥の座敷では、子供たちがしきりに身支度をしている気配がする。そのうちの一人が弾んだ声で応える。
「ちょっと待ってて下さい。すぐ行くから」
私と男の子たちは海まで走った。稲瀬川沿いの松林から、今日も耳が痺れるほど鳴いている油蝉の声が聞こえる。走って行くと海まで三分もかからない。浜の疎らな松林を抜けて砂浜にたどり着くと、半ズボンと麦藁帽を取るのももどかしく、水をわざと撥ね散らかしながら波の中に飛び込む。すると笑い声とも悲鳴ともつかない叫び声があがる。肩や額は陽射しに焼かれるように熱いのに、七月の海水はまだうんと冷たいのだ。
私より年下の三人の坊ちゃんはまだよく泳げない。
「始めはね、こうやって鼻をつまんで目をつぶって・・・」
胸までの深さのところでぴょんぴょんと砂底を蹴りながら、潜ったり顔を出したりして、手本を見せる。
「水に慣れてしまえばちっとも怖くないですよ」
夏中、こうやって泳ぎを教えたり、稲瀬川の河口のところで真っ赤な沢蟹を捕まえたりして、私は避暑に来ている松平家の五人の坊ちゃん方と毎日遊んだ。何かの都合で昼間遊べなくても、夜、ご家族が海濱博覧会のある浜まで散歩される時に誘われたりするので、顔を全く合わせないという日はほとんどなかった。書生に勉強を見てもらう時間に、私もふわふわのお菓子はバターや玉子の何ともいえない良い匂いがした。御下賜されたという御紋章の打ってある干菓子を、「何て美味しいんだろう」と喜んで食べてしまったが、もっと私の年がいっていたらあんなに無造作には口にできなかっただろう。
父君の松平子爵が別荘に見えると、坊ちゃん方と遊んでいる私にもいろいろな話をして下さった。ある日、外国の写真を私たちにたくさん見せて下さった。ある日、外国の写真を私たちにたくさん見せて下さって
「これ何だか、ヒロちゃんわかる?」
それは灰色のホースの伸びたガスマスクをつけている外国人だった。
「これ、山は空気が薄いから付ける物ですか?」
「ほお、よくあなたは知っているのね」
と、褒めて下さった。そいういうことは鮮明に覚えている。
「高い山はね、空気が薄くて、登っているうちに苦しくなるから、この酸素マスクを付けるんですよ。アルプスに登る時にヨーロッパの人は必ずこれを持って行くんです」
子爵は非常に物腰の柔らかな方だった。
松平様は、現在愛知県西尾市となっている西尾藩主の御家柄である。『藩史辞典』(秋田書店)を見ると、西尾藩というのは慶長六(一六〇一)年以来、次々と徳川家譜代の重臣が封ぜられた藩と出ている。明和元(一七六四)年に松平乗祐候が出羽山形から入封してからは移動がなく、廃藩置県までこの地を治めた。寺社奉行や老中などの幕府の要職を務めたり、藩校修道館・済生館を設けて子弟の教育や医者の養成をするなど、名君の輩出された藩であることがわかる。
別荘に来ている書影も女中も父君の松平子爵を「殿様」、代々決まった幼名を持つ御長男の源治郎様を「若様」とお呼びしていた。
お邸で見たり聞いたりするものは遠いヨーロッパの文物であったり、東京という別世界のモダンでハイカラな輝きに満ちたものばかりだった。もし直接そういう場所に放りこまれたら、子供だった私には受け止めきれなかったに違いない。けれど松平様の別荘はどこまでもしっとりと気品のある雰囲気に満ちていた。子爵は殿様と呼ばれる身分の方にもかかわらず、田舎町の小学生の私に非常に丁寧な話し方をされ、一緒に遊ぶ坊ちゃん方の言葉遣いも上品だった。また行儀見習いの女中や西尾藩の旧藩士の子弟である書生も折目正しい人たちだったから、自然と私も礼儀に気を配らざるを得ない。いつのまにか丁寧な言葉遣いを覚え、本当の紳士たるものはどのような態度、物腰であらねばならないかを学んだことは、人生の上で大変貴重な体験になった。お邸のそうした雰囲気もまた、私の心の奥底により高い文化への憧れも育ててくれたように思う。
御長男の源次郎・乗光様は学習院の乗馬クラブに入っていらして、私にとってはまぶしい憧れの方だったが、後に三井銀行の重役になられた。同い年の次男、ヨッチャマ・義男様は旧長岡藩の牧野子爵のもとへ、四男の斉(ひとし)様は加藤友三郎海軍元帥のもとへそれぞれ養子に入れられた。三男のヤッチャマ・悌(やすし)様はキリンビールに勤められ、そして末子の潔様は昭和天皇に長く仕えられた。三男の悌様は御元気でいられるが、四人の御兄弟はすでに泉下の人となってしまわれた。短い季節の間の交流であったとはいえ小学校あがりたての頃から十代の半ばまで、毎年、夏の子供の楽しさを共に味わいつくした思い出は忘れることができない。五人の方々もそれは同じであったろうと思う。また立場こそ違え大震災、戦争と、同じ時代の激しい動きを潜り抜けた同世代であったおいう思いも強い。
松平家の奥様方は今もお付き合い下さっている。湘南方面に見えた時はこちらに遊びに来ていただいたり、季節ごとの御挨拶の手紙を欠かさずお出ししている。その手紙に私の拙い句などを書き添えて大変に喜んでいただいたこともある。
子供の頃の私は、過去を振り返ることもないし、未来を思いわずらうこともなかったからだろうか、眩しい陽射しや由比ヶ浜の波と戯れる一瞬一瞬が永遠に続くように、夏はいつまでも終わらない季節のように感じられていた。それも今となれば七十年以上も前の思い出の一こまである。
公達と遊びし夏は幻か 弘雄
「晨風清興(しんぷうせいこう)」
1997年5月20日第一刷発行
著者 石渡弘雄
発行所 リーブ企画株式会社